5月15日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第18回「初期キリスト教会の権威と福音」2024年5月10(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は、初期キリスト教会の成立と、一番最初に書かれたマルコ福音書についてお話を聞きました。

①初期キリストの伝播 

当初、キリストを信じる教会共同体は、エルサレムを中心に増えていきました。しかし、その主流はユダヤ教徒のキリスト者たちであった。そして、その教会の首長としてペトロ、ヤコブたちが厚く広く尊敬されていました。それは、言うまでもなく、彼らこそがイエスの弟子であり、復活の証人だったからです。ところが、ある時、ステファノの殉教事件が勃発。そこから教会は大きく変遷して行くのです。即ち、エルサレム教会の分断と分裂が始まったのです。教会はアンティオキアへと広がり、この町で初めて、イエスをキリストであると信じる人々が「キリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)と書かれているように、すでにユダヤ人だけでなく、異邦人にもキリストの福音が宣べ伝えられ、キリストの教会は世界に広がっていく様相を呈していたのです。

②エルサレム教会から異邦人世界へ 

イエス復活後、エルサレム教会は、初めは使徒たちを中心とするユダヤ教徒の中の一派に過ぎず、その長はペトロでした。しかし、ペトロは主の兄弟ヤコブの登場から、次第にエルサレムから離れることになります。その理由は定かではありませんが、ステファノ殉教の事件以降、ユダヤ人の間での様々な軋轢が関係していることは間違いないようです。つまり、ステファノ一派はユダヤ教徒が大切にしていた律法を蔑ろにし、キリストの福音が、これに変わるといった発言は、ユダヤ人にとってかなり過激であり、彼らの不満を煽ったことは確かです(使徒7:51-53)。このステファノ事件をきっかけにして、44年頃にはエルサレム教会の首長であった使徒ヤコブがヘロデ王に命により処刑されペトロも逮捕されました(使徒12:1-3)。この事件以降、次第にぺトロのエルサレム教会での権威と地位が揺らぎ始め、ここでの宣教活動は極めて困難且つ危険に満ちたものとなり、エルサレムから脱出を余儀なくされたのです。

③教会の亀裂と分断 

初期のエルサレム教会共同体は実に理想的な姿を実現していて、皆が喜びの内にありました(使徒2:43-44/4:32以下)。しかし、少しずつその体制にもほころびが見え始め、亀裂が入り、ついにその体制維持すら極めて難しくなったのです。金持ちは多額の寄付により優遇され、貧しい者はその恩恵を受けてはいた。が、ある者は多額の寄付を装い(使徒5:1)、尊敬を受けるなど者もいて共同体に少しひびが入って行きました。こうした共同体の中に渦巻く様々な問題にペトロも一人では解決できなかったのです。こうした事柄が明るみになるにつれ、イエスの言動に批判を試みる人まで出て来たのです。

④福音書の成立 

こうした事情から、マルコ福音書が書かれるに至った経緯もあるのです。いずれにせよ、直接イエスの弟子がまだ存在する中、教会内の統制が利かない状況にあって、記録されたイエスの言葉の集積は必定となった。実際、マルコ福音書が書かれたのは50年代。60年代にはすでに読まれていた。当初、福音書がギリシャ語で書かれたのはユダヤ人キリスト者のためでなく、明らかにヘレニストたち、つまりギリシャ語を言語とするユダヤ人キリスト者のためであった。これが後に異邦人のキリスト者へとつながり、エルサレム教会主流派との対決から没落の時期と重なっていく。こうしてイエスの福音はユダヤ世界から外に踏み出し、キリストの教会が異邦人世界へと広がる、まさにその契機となったに違いないのです。

⑤ペトロの権威と福音の成立 

実は、このマルコ福音書は、ある意味、弟子たちへの辛辣な批判の文書として知られている。例えば、マルコ8章33節において一番弟子のペトロはイエスから激しく叱責されている。これは、当時のペトロがイエスの言動とは違う姿勢を示したからであり、サタンとさえ呼ばれます。これは明らかに権威ある「弟子たちの教会」が弱体化している実態を背景にしています。それが教会の後継者問題なのです。そもそも弟子の権威とは、彼らが直接イエスの弟子であったこと。それが後継者に託されるとき、弟子と同程度の人物と称賛されない限りはかなり難しい。さらにイエスの復活の証人ともなれば、ことは簡単ではない。いかにして教会の権威を保つか、それは重要な課題でした。そこでイエスの言動を書き残す文書、つまり、福音書が必要となったのである。ユダヤ人キリスト者から異邦人キリスト教会に発展していく中、権威の後継は、次第に福音書を基盤とする時代へと入っていたことを裏付けます。そのため、福音書は、一番弟子であったペトロの権威を確実なものとするため、「私はあなたに天の国の鍵を与えよう」(マタ16:18-19)と、イエス自身のことばでペトロを教会の礎として権威付けようとしたのである。

 

次回のお話の会は、5月24日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

エジプトで発見されたマルコ福音書断片

お話の会 風景

カトリック西舞鶴教会 リグリアンホール

お話の会 風景

5月7日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第17回「使徒時代のキリスト教」2024年4月26(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は、イエスの復活後、回心した弟子たちの行動についてお話を聞きました。

①復活のイエス イエスが十字架刑によって死んだのは紀元30年とすれば、同年ユダヤ暦のニサンの月の14日であり、太陽暦ならそれは4月7日のことであった。マルコとマタイの両福音記者は、ペトロを筆頭に全員がイエスを見捨てて逃げ去ったと書く(マタ26:56/マコ14:50)。おそらく、弟子たちは皆故郷ガリラヤに帰ってしまったと思われる。もし、このまま郷里に閉じ籠れば、キリスト教は誕生しなかったであろう。しかし、彼らは再びエルサレムに立ち帰り、キリストの福音をのべ伝える宣教者となった。それはなぜか。死んだはずの主が彼らの前に顕現し、復活の神秘を経験させられたからに他ならない。マルコは復活の主が再びガリラヤで弟子たちに会うことを明言して福音書を閉じる(マコ16:7)。この点では、マタイも同じで復活者はガリラヤで皆に会うことになるとするが、疑う者もいたと書く。この点で、復活の出来事に不明確さがにじみ出る。ルカでは、ペトロに現れたと書き、皆が体験していないかのように描く(ルカ24:34)。

②復活者は何処に? イエスは果たしてガリラヤか、それともエルサレムで顕現されたのか。不明な点が多い中、福音書よりも前に書かれた「パウロによるコリントの教会への手紙」(15;3‐7)によると、イエスは「まずケファ即ちペトロに会い、次いで12人の弟子たち、そして500人以上の兄弟たちに現れた」とされる。最後に取るに足りない自分にも現れたとパウロは書く(同15:8)。ところが、弟子の12人に合ったと書きながら、それとは別に<ヤコブ>にも現れたと言う。この人物は一体誰か。実は、使徒ヤコブのことでなく、主の兄弟ヤコブである。彼はガリラヤに残った弟子たちの一人で、イエスと同行していない。ただ皆の帰りを待っていた人物である。そのヤコブがイエスの復活後、エルサレム教会の首長となっているのは、彼がガリラヤで復活主と出会ったことを示唆する。つまり、必ずしも主はエルサレムで弟子たちと会ったのではない。いずれにせよ、弟子たちは再び、エルサレムに引き返し、教会を設立していったのであろう。

③ユダヤ人キリスト者からの脱皮 このようにエルサレムから始まったと想定して考えると、このキリスト者集団は、初めはユダヤ教内部の一派として始まったのであろう。彼らはナザレのイエスこそ来るべきメシアであると宣言するユダヤ教の一派に過ぎなかった。言い換えれば、彼らの宣教の対象はユダヤ人にのみ限定され、内実はあくまでユダヤ主義に留まるキリスト者に過ぎなかったのである。つまりユダヤ教的律法を遵守するキリスト者に留まったのである。そういうことからパウロも迫害するまでには至らなかった。しかし、このユダヤ主義的な律法遵守を批判し、これを否定して律法からの自由を説くキリスト者たちが現れ、これと激しく対立することになる。その代表格がギリシャ語を話すステファノたちのグループであった(使徒6:11以下)。実に、パウロが迫害したのは、このような、いわゆるヘレニスト的キリスト者たちであった。実にその迫害者であったパウロが、ヘレニスト的キリスト者となってイエスの福音伝道者となるのである。

④パウロの回心 このパウロの回心については、使徒言行録に詳しく物語られているが、現実は、それほど劇的なことではなかった(使徒9:1以下、22:6以下、26:12-18)。パウロ自身が書いたガラテヤ書(1:16)によると、「神がみ心のままに御子をお示しになった」とだけ書く。ユダヤ教からキリスト教への大型回心というよりはむしろ、ユダヤ教的律法主義からキリストによるゆるしと神の愛へと大きく舵を取ったというべきだろう。その発想の大転換からユダヤ人以外の異邦人にもイエスの福音を伝えるべきとの使命感を生み出したのではないか。だが、それは実に緩やかな動きでもありながら、むしろ寡黙なまでの動きであった。なぜなら、パウロの回心後の行動は、直ちに身を起こすような言動というよりは、誰にも相談もせず、使徒たちとも会わず、アラビアに退いているからである(ガラ1:16-17)。

⑤律法からの自由を求めて パウロはエルサレムにいるイエスの弟子たちとは明らかに一線を画していた。あたかも具体的な行動を起こさなかったかに見えるアラビアへの退散は、実は、異邦人への宣教使命に駆られていたからだった。アラビアとは現在のヨルダン西部から死海の南東側一帯を指す地域であり、当時そこはナバテア王国と言われる処で、パウロはそこで律法主義からの自由を説いていた(使徒9:23-25)。そのためにアレタス王から追われ回心の出来事があったダマスコで捕らわれそうになる(IIコリ11:32-33)。いずれにせよ、パウロはキリスト者となって回心したその3年後の紀元36年にエルサレムを訪問し、使徒ペトロと主の兄弟ヤコブの二人と面会した。滞在は僅か15日間であった(ガリ1:18)。その意味はパウロがエルサレム教会の影響下にないこと。またもう一つの理由は、彼が律法主義に反対していたからであって、実際に、パウロはユダヤ主義キリスト者から厳しい迫害を受けていた。そのため郷里のタルソスへと逃げ帰り、一旦、その姿を表舞台から隠したのである。しかし、その後、親友のバルナバによって、再びアンティオキアという表舞台へと引き出されたのである(使徒11:25-26)。

 

次回のお話の会は、5月10日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

レンブラント・ファン・レイン画「ステファノの石打ち」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ画「パウロの回心」

お話の会 風景

カトリック西舞鶴教会リグリアンホール

4月16日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第16回「イエスの死と復活」2024年4月12日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は、イエスが十字架刑によって死に、その後埋葬され、復活するまでのお話を聞きました。

①イエスの死と埋葬 イエスが十字架上で息を引き取った後、イエスの友人たち(アリマタヤのヨセフとニコデモ)が遺体の取り下げを願い埋葬の準備にかかった(マタ27:57;マコ15:42)。それは、律法の規定に従い、「木に掛けられた罪人の死体」は、葬られねばならなかったからである(申21:22)。十字架から取り降ろすことを願ったのは、「ユダヤ人たちであった」とヨハネは記すが(ヨハ19;31)、いずれにせよ、安息日が始まる金曜日の夕刻までに埋葬を完了すべきであった。実際、イエスの遺体を取り降ろし、墓に納めたユダヤ人はアリマタヤのヨセフであった(ルカ23:50-54)。彼は、お金持ちで最高法院の議員でもあったが、総督ピラトに直談判し、許可を得ることができる地位の人物であったことは容易に想像できる。またファリサイ派でユダヤの議員でもあったニコデモもまた、この埋葬に加わり、没薬と沈香を添えて、遺体を亜麻布で包み、処刑場のすぐそばにあった新しい墓にイエスの遺体を埋葬した(ヨハ19:38-42)。

②墓を見る女たち イエスが葬られた墓の前には大きな円形の平たい石が、墓の入口を塞ぐ形で、掘られた溝に横方向に転がされて外部から完全に遮断される。墓の中から人が出ることも、勿論、外から入ることも難しい。女一人ではどうしようもないはずである。墓の中入り口から階段を下りて、洞窟の中の小さな空間を見る。そこには小さなホールがあって、壁面には細長い窪みがあって、遺体をそのまま収納できる。亜麻布に包まれたイエスの遺体も同じようにそこに置かれたことだろう。女たちはそれを食い入るように見つめていた(マコ15:47)。彼女たちは何を見極めようとしていたのか、それはおそらくイエスが墓のどの位置に葬られたかをしかと記憶に留めるためだったと思われる。なぜなら、遺体に香料を塗布する時間がなかったからである(ルカ23:55-66)。安息日の後、また墓に来て塗油することを考えていたのである。だからはっきり場所を確認しておく必要があった(マタ27:61)。墓の中は暗いので、見つけるのに時間がかかるからだ。

③空の墓 イエスが死んで三日目、それは日曜日の朝のことだった。朝早く日が昇るとすぐに墓に走るのは、マグダラのマリアであった(ヨハ20:1)。彼女の目的はイエスの遺体に油を塗るためである。ところが彼女らがまず目に留めたのは、あの大きな入り口の石が転がされていたことだった。そもそも、彼女たちの心配は大きな石を誰が転がしてくれるかということだった(マコ16:3)。しかし、見ると、すでに石は脇に転がしてあるのを見る。墓の中に入り、イエスの置かれた場所は空であった。ただ「白い長い衣を着た一人の若者」がイエスが葬られた辺りに座って、「イエスは死から蘇られた」と語る。何が起こったのか、全く理解できないまま婦人たちは恐ろしくなって、そこから逃げ出し、結局、誰にも何も言わなかったとマルコは聖書を閉じる(マコ15:8)。

④復活体験 しかし、マグダラのマリアは一人で墓に走り、「空の墓」を経験する。そのとき、彼女も、すでに取り除けられた石を見て、すぐに立ち返り、ペトロたちに「墓から主が取り去られた」(ヨハ20:2)と告げている。マリアは、他の婦人たちとは違い、弟子たちにはっきりと告げる。そして、ペトロとヨハネは急いで墓に向かって走りだす(ヨハ20:3)。イエスの遺体はマリアの言った通り、墓の中には無く、空の墓という事実を確認する(ヨハ20:8)。イエスの遺体が納められていた墓の中は空であったことの意味は、「主は復活された」というメッセージにつながる証言である。これが若者の語る復活のメッセージともつながる。そして、マリアは復活の主と出会っていくことになる(ヨハ20:14)。マリアは明らかに主イエスの声を聴き、それが生前のイエスの声と分かる(ヨハ20:16)。こうして、次から次と復活の証しが広がっていった。多くの弟子たちの前にも現れた復活の主イエスは、彼らと語り合い、食事も共にした(ヨハ21:12-13)。

⑤イエスが「現れた」 この証言の始まりは、実はパウロである。イエスが十字架にかけられ、そして死なれたその時、パウロは27歳ほど。出来事は知っていたであろうが、「最後に自分にも現れた」と証言している(1コリ15:8)。それ以前にも、多くの者がイエスを目撃したという、いわゆる顕現物語が語られていく。復活のイエスとの顕現に遭遇した人々に共通する出来事とは一体何か。それは、明らかに肉体を墓の中に置き去りにする<霊の人イエス>でも、またただ単なる<蘇生の人イエス>でもない。彼らが見たイエスの姿とは、新しい体を持つ命そのものであり、それは永遠のいのちへの蘇りを復活の主イエスのうちに見ることなのである。このように、変容したイエスの復活を見た人々は、あのとき死んだのは悪と死であり、すべての人を新しい命へと蘇らせる力であると信じたのである。

⑥復活し今もなお生きる もしイエスの物語が十字架と死で終わるのだとしたら、キリスト教も生まれなかっただろうし、復活信仰も、またメシアを信じる信仰運動も何もなかったであろう。しかし、現実は福音書が描かれ、イエスは復活し今も生きておられるとの証言を通して、福音が語られ、今も主が生きておられることを告げ知らせる事は終わらない。

 

次回のお話の会は、4月26日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

アレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフ作「復活後にマグダラのマリアの前に現れたキリスト」

お話の会 風景

3月25日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第15回「イエスの処刑、裁判、そして十字架」2024年3月22日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。 

 今回は、イエスが裁判にかけられ、十字架刑によって処刑されるまでのお話を聞きました。

①イエスの裁判 イエスが被告として裁判を受けた法廷は二つ。ユダヤ法廷(小サンヘドリン)とローマ総督ピラトによる法定である。支配者側のローマ帝国と被占領側のユダヤ民族、それぞれ自ずと性格は異なる。属州ユダヤは律法(トーラー)に基づく慣習法規、帝国ローマは支配者側の利益優先の法にある。被告イエスはこの両者の思惑、私利私欲の狭間に二重に裁かれたのである。言うまでもなく、これら両法廷の裁判は、違法かつ無効なものであった。ユダヤ法廷では二人の証人による証言が行われたが、発言が食い違っていた(マコ14:55-56)。このように証言が一致しないとき判事の評決が必要となるが、合法的に行われなかった。

②大祭司カヤパの裁判 この法廷は夜中に開かれる。ゲッセマニの園でイエスが逮捕されたのが、木曜日の夜だったからだ。この裁判は一方的に終了し、ピラトに引き渡される。その翌朝には最高法院(サンヘドリン)が開かれる(マコ15:1)。が、日中に開くという原則規定から無効。また判事らは無罪の証言を求めずに不利な証言だけを集めたとあるが、これも全く規定に反する。さらに死刑評決は大祭司による一方的な冒瀆罪の押し付けであって、これまた無効評決であって死刑に相当する罪には当たらない。そもそも即日の有罪判決は、そもそもユダヤ法に適していない。このように何から何までイエスを死に至らしめるための画策であって、すべてが違法のまま進む裁判であった(ヨハ11:50,18:14)。

③ピラトの法廷 いずれにせよ最高法院は始めからイエスを死刑に処すことを目的としており、無効であるが、その結果は不十分であった。つまりは裁判自体が違法であって、そもそも神への冒瀆罪立証に失敗している。ユダヤ法規に照らしてみても、さすがにイエスをこのままで死刑に踏み込むには土台無理がある。そこで、大祭司カヤパとサドカイ派は相談の末、妙案を思いつく。それが被告イエスをローマへの反逆者として提訴することであった。こうして、総督ピラトの元へと引き渡された。当時、総督ピラトは神殿を見下ろすことができるアントニア城に滞在しており、都合がよかった(ヨハ18:28以下)。こうして、被告イエスは冒瀆罪から反逆の罪に問われることとなって、ローマ法廷に引き出されたのである。ピラトはイエスに尋問はするが、何の根拠で罪を問えるのか、全く理解できない。確かにユダヤ民族を煽動し、皇帝への納税を拒否し、自分を王と称した、ということだが、それが即死刑に相当しないからだ。そこで、イエスがガリラヤ人と知り、その時ちょうどエルサレムに滞在中であった領主ヘロデのところにイエスを送った(ルカ 23:6-12) 。

④罪なきイエス 総督ピラトはイエスを釈放しようと考えている。ローマ法から見ても有罪とする決め手が見当たらないからだ(ルカ23:13-16)。大祭司カヤパの口車に乗せられて簡単にイエスを処刑にすれば、ローマ総督の沽券に関わる。まして、事態がガリラヤ暴動にでも発展すれば始末に負えない。そこで思いついたのが恩赦であった。ユダヤ人の祭りには誰か一人を釈放できるのだ(マタ27:15)。ここにバラバ・イエスが登場する。バラバとは「父の子」という意味だが、熱心党の闘志であってローマへの抵抗勢力の首領だ。バラバはイエスと同じ名だったので、「バラバ・イエスか、メシアのイエスか」(マタ27:17)と迫るが、人々はますます「バラバを」と叫ぶ。これを見て困惑するピラトは妻が夢で魘されたとの伝言を聞くが(マタ27:19)、民衆は「バラバを」と叫びたてたので、暴動を恐れるピラトは「この人の血に責任はない」と言いながら手を洗ったという(マタ27:24)。

⑤十字架刑 ユダヤ法に従えば、冒瀆罪は石打の刑で済むが、イエスはローマへの反逆の罪で十字架刑に処せられらる。従って、刑の執行は鞭打に始まる。それは受刑者の体力を奪い、速やかに刑を執行するためである。そのため、鞭には鉛玉が込められる。次に十字架を刑場まで運ばせるのだが、形は十字でなくT字型で、その横木を担がれる。それでも重荷に耐えかね幾度も倒れるイエス。これを助けるキレネ人シモンが現れる(ルカ23:26)。形状につくと衣を剥ぎ取られ辱められる。横木に両腕が縛られて釘で打ちつける。尋常なき痛みが走る。葡萄酒を飲ませるのは苦痛を和らげるためだが、イエスは受けなかったと言われる(マコ15:23)。

⑥イエスの死 両脚は添え木の上から踝を釘で打ち付けられ、死に至るまで相当な苦しみを味わうことは必至である。特に呼吸はしづらく、足で突っ張るたびに激痛が走る。それを繰り返しつつ、出血と疲労が貯まり、呼吸困難と衰弱によって、最後は窒息死するか、心臓麻痺で絶命する。死んだかどうかを確かめるため脛を折る。足の踏ん張りなしでは簡単に絶命する。しかし、イエスの足は折られず、代わりに槍でその脇腹が貫かれた(ヨハ19:31以下)。このようにイエスの足は折られず、十字架から取り降ろされたのは異例であった。木に掛けられた者は呪われた者だからだ(申命21:22-23)。当時、エルサレムは不穏な動きに満ち、騒然としていた。大勢の巡礼者たちも、ガリラヤから押し寄せていた。何が起こるか分からない一発触発の危機的状況を察し、ピラトも早く事を収めたかったに違いない(マコ15:44-45)。ことを穏便に済ませたのは、実は百人隊長だったと思われる(ルカ23:47)。

 

 次回のお話の会は、4月12日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

ディエゴ・ベラスケスキリストの磔刑

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオキリストの埋葬

お話の会 風景

カトリック西舞鶴教会リグリアンホール

3月16日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第14回「受難死直近のイエスの言動」2024年3月8日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は、ユダの裏切りについてお話を聞きました。

 ①裏切り者のユダ(マタイ26:21-25)過越の小羊を屠る日、イエスは弟子たちと最後の食事をとる。こともあろうに、その席のただ中でイエスはこう言ったのだ。「はっきり売っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタ26:21)。また、こうも言った。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」(マタ26:24)と。こうして、ユダは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハ13: 27)とのイエスの言葉通り、その席から離れ、外に出た。それからユダは有罪の判決がイエスに下されたのを知って後悔し、受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首をつって死んだという(マタ27:3-5;ゼカリヤ11:13も参照せよ)。

謎多き弟子ユダこのユダについて使徒言行録は不当に得た金で土地を買い、その地で真っ逆さまに落ち、体は真ん中から裂け、死んだと書く(使徒1:18)。しかし、果たしてその真偽は闇に葬られはっきりしていない。謎多き弟子、ユダとは一体どういう人物であったのか。実は、ユダほど不可解な弟子は他にはない。その出身地も経歴も、さらにその言動も他の弟子とは大きく違うからだ。ユダは、当時イスカリオテのユダと渾名されていた。その意味は<都会育ち>であり、ガリラヤの漁師であった弟子からすれば、一目置かれる弟子であった。またユダは弟子団の財政を預かる係であり、信頼は厚かったと思われる。もし仮にユダが師イエスを裏切るにしても銀貨30枚は安い。金に目が眩んだとは思えない。イエスを裏切る価値と動機がこのユダに感じられない。

ユダの不可思議な行動過越の食事の席で、イエスから言われたことを実行するため、ユダは外に出る。それにも拘らず、この時、弟子の誰一人としてユダの裏切りを察知した者はいない。いかにも不自然な行動であるのに、祭に必要なものを買いに行ったかのごとく思い込む。イエスの「しようとしていることをすぐにしなさい」の真意は何であろうか。もしイエスがユダに裏切りを指示したのなら、それは考えられない。なぜなら、これまでのイエスの言動から人に罪を犯させることはあり得ないからだ。他の特別な使命があったからではないかと思われる。いずれにせよ、ユダは何らかの仕事を果たして一行が集まっているオリーブ山のゲッセマニの園に戻ってくる(ヨハ18:3-4)。ユダがイエスに近づいて接吻する(マタ26:49,マコ14:44,ルカ22:48,)。それが何かの合図であった。しかし、弟子たちはこの一連の出来事を見て、ユダ裏切りの物語を作りあげたのであろう。

ユダとイエスそれにしても腑に落ちないイエスの言葉がある。最後の晩餐の中で行ったこの言葉、「この中に私を裏切ろうとしている者がいる」(マコ14;18)である。弟子たちは「まさか私のことでは」(マコ14:19)と、代わる代わる言い始めている。これは明らかに、弟子全員が裏切る可能性があったことを思わせる。しかも、その一番手はやはりペトロである。それに加えてイエスはこの決定的な言葉を言う。「生まれなかった方が、その者のために良かった」(マコ14: 20-21)と。これはユダに充てた、彼にふさわしい言葉と言えようか。イエスは一体どういう気持ちから、この言葉をユダに向けたのか。人を罪人とすることは決してなさらないイエスの発する言葉とは到底思えない。ならば、どう受け止めようか。ユダに対する憎悪と憎しみから出た苦渋のイエスの言葉か、いやむしろこれはイエスご自身、この唾棄すべき裏切りを自らのうちに封印され、誰にもこの罪を押し付けないという、複雑な心境における言い回しと理解すべきか。

イエスの苦渋イエスはユダをどう捉えていたのか。おそらく、イエスは他の弟子とはかなり違う見方で、ユダを信頼していたとみるべきだろう。二人の間には特別な信頼関係が築かれてあったと思われる。そもそも、ユダは他の弟子と違って、彼自身博学であり頭脳明晰にして豊富な知識を持ち合わせていた。その意味では、イエスにとって一番の理解者でもあったと考えられる。だからこそ、ユダは<師であるイエスは、今、十字架の道を行こうとしている>と感じていたのではないか。その一方で、イエスもまた、自分のことを一番理解できているのはユダであり、実行できる唯一の弟子と見込んでいた。それは裏切り行為の支持でなく、イエスが十字架の道を行くには、ユダだけが勇気をもって協力できる立場の男だということ。ユダだからこそ、イエスの真意を理解でき、かつその受難の使命への協力者となれるとイエスは分かっていたのではないか。

事の真相を裏付けるイエスは、そもそもエルサレムの旅の途上で、三度も自らの受難死を予告している(マコ8:31,9:31,10:33)。しかし、弟子の多くはその意味をほとんど理解できなかった(マコ9:32;ルカ9:45)。おそらく、この言葉の意味を理解できたのはユダだけであった。イエスの受難予告を真っ向から否定したペトロなどは、イエスから激しく叱責されている。その場には、勿論、ユダもいて、このイエスの受難死予告を聞いている。イエスが何を望み、何をしようとしておられるか、また何を求め、何を実現しようとしているか、知っていたのはユダしかいなかったであろう。

 

 次回のお話の会は、3月22日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

お話の会 風景

カトリック西舞鶴教会リグリアンホール

2月27日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第13回「主の受難の前に」2024年2月23日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回はイエスの「主の受難の前に」のテーマで、レオナルド・ダヴィンチの名画「最後の晩餐」を鑑賞しながら次のお話を聞きました。 

①「最後の晩餐とは」

 過越の屠る日に、イエスは弟子たちと食事の準備を始める。これがユダヤ教で言う除酵祭、即ち(酵母を入れないパンを焼く祭り)である。この種無しパンを食べながら、ユダヤ人はエジプトを脱出したイスラエルのことを思い起こし記念する。その第一日とは、ユダヤ暦で言うニサン月の14日のことであって、過越祭はその日の夕食になる。イエスが弟子たちをエルサレムに入らせたのは、席が整った二階の広間に夕食を準備させるためであった。家中のパン種は取り除かれ、隅から隅まで掃除され、搔き集められたパン屑や酵母はすべて焼却されて、いよいよ子羊を屠るのは14日の午後のこと。神殿では既に祭儀が始まっている。 

②「過越の食事の準備」

 さて、イエスは弟子たちに食事の場所を知らせていない。「何処に準備するのか」とイエスに尋ねていることからそれが分かる。おそらくイエスはこの時既に身の危険を察知し、警戒している。また漠然とではあったが、ナルドの香油を塗油する場面で暗示的に自らの死を語っている。香油を注ぐことは埋葬の準備を意味するからだ。更に面白いのは、弟子を先に都に入らせ、「水瓶を担ぐ男に出会う」と言っていることだ。普通、水瓶を担ぐのは女の仕事で、男は担がないもの。だとすると、かなり緊密にイエスはこの会席の提供者と打ち合わせていたことがわかる。また「最後の晩餐」の構図では、ダヴィンチの絵が有名だが、実際はどうだったのか。正確には皆横になって席に着いていた。確かに福音書は「席についていた」と訳されているが、「横たわる」を意味するギリシャ語で書かれている。つまり、弟子たちは左肘をついて上半身を支え、横向きに寝そべり、足は後方に投げ出して席につく形であった。

③「席の位置と食事の風景」

 このような晩餐の席配置から想像すると、洗足の状況が見えてくる。イエスは立ち上がり、弟子の周りをぐるりと回って洗ったことになる。またファリサイ派の家で罪の女がイエスの足を洗ったときも、その様子を窺い知ることができる。更にイエスの愛した弟子が「胸元に寄り掛かった」のも彼の右隣にいたと分かってくる。また食事はどうだったかといえば、メニューとしては先ず種無しパン、そして野菜とドレッシングを添えた苦菜。子羊のローストに卵、勿論、ぶどう酒を忘れてはいけない。

④「過越の食事」

 食事は杯に一杯目のぶどう酒を満たし祈りから始まる。次に食卓にある水差しで両手を洗い、野菜は塩水に浸して種無しパン一枚を割る。二杯目の杯を取ってエジプトでの苦難の歴史を語り、詩編113と114を食前の祈りとして唱える。ここで再度手を洗い、パンを取って、今度は苦菜を添えて食べる。ここで一旦食事を中断。寛いだ雰囲気を楽しみながら食事の後半に入る。ここで三杯目の杯を満たし、感謝の祈りを捧げる。ここが長い祈りとなるが、終わると杯を飲み干す。四杯目が満たされ、詩編115~118を唱え、食後の祈りを唱える。ここで繰り返されるハレルヤの祈りは「主よほめたたえよ」であるが、特に136編の「主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは絶えることがない」という祈りは、幾度も繰り返し唱えられる。

⑤「本当の食事の席は」

 イエスはこの過越の食事の前半部分のほとんどを省略し、食事が中断したとき裏切り予告をしている。特に食事の最も中心的な部分でイエスはパンを取ってこれを祝福せずに弟子たちに渡した。神に賛美の祈りを唱えるのは至極当然のことであるが、祝福はパンではなく、神なる主の祝福なのである。神なる主に向かって祝福の祈りが捧げられる。何よりもまた注目すべきは「取りなさい」というイエスの言葉にある。要するに「自分の手で取れ」という意味であるが、その意味は自らの手でパンを取ることによって、私とイエスの間には誰もいないことを意味する。司式者は参列者の手の上にパンを置き、自らパンを取ることでイエスと直接結ばれるのである。

⑥「賛美と感謝、そして祝福」

 賛美と感謝の祈りは神への祝福の祈りであって一言で表される。「ほむべきかな、汝、主、我らの神、世界の王、主はぶどうの木から実を創り出し給えばなり」と。イエスはこのぶどうの実から搾りだしたものを弟子たちに与え、回し飲みさせている。これが食後の三杯目で、イエスは「もう二度とぶどうの実から作ったものを飲まない」と言う。これはどういう意味か。「神の国が来るまで」と言っているので、この地上における神の国の実現を夢見ていたのではないか。そしてこの後、一同は「賛美の歌」を歌ってオリーブ山へと向かったのである。なぜ、イエスとその一行は城外へ出たのか。普通なら都に留まるのが慣例であるが。…

 

 次回のお話の会は、3月8日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

レオナルド・ダヴィンチ絵画「最後の晩餐」

種なしパン

お話の会 風景

2月13日 更新

  

頭島神父様によるお話の会 

第12回「善きサマリア人」のたとえ 2024年2月9日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回のお話では、ゴッホの絵画「善きサマリア人」の絵を鑑賞しながら次の聖書解釈を聞きました。

①「隣人愛」

 イエスの語る「たとえ」の中でこの「善きサマリア人」ほど優れたたとえは他にない。隣人愛を紐解くたとえにも関わらず、賢い律法学者たちには隠されているとイエスは名言する。

確かに、ここで彼らは「永遠の命」を受け継ぐ方法をイエスに尋ねるが、イエスもまたラビとして問い返す。「律法にはどう書いてあるか、またそれをあなたがたはどう読むか」と。こうした論法は、間違いなくユダヤ的である。実に、彼らは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を聖書から引用して的確に答える。そしてイエスは言う。「正しい答えだ。その通りあなたも行え」と。まさに実践そのものが隣人愛の全うなのである。

②「賢者としての誇り」

 聖書に精通し、これを守り教える者が律法学者としての任に当たる。彼らは旧約ではレビ族である祭司エズラ家系に属する者たちの子孫であって、特にモーセの律法とその教えを解釈する役目を負っていた。イエスの時代、彼らは人々から賢者、教師と呼ばれ、尊敬されている。彼らの仕事は、主に律法の写本、結婚の契約者、離婚証書の作成、訴訟の調停であった。中には、祭司長や長老たちと並んで最高法院の議長を務める者もあった。一方、ガリラヤの田舎教師に過ぎないイエスは、そうした律法学者らの賢者としての誇りを窮地に追い込む。「これを行え」と言葉をぶつけるイエスに対抗して「それでは『隣人』とは誰か」と問い詰める律法学者たちは何とか律法解釈でイエスに打つ勝とうと試みる。

③「神の掟か、愛の実践か」

 イエスのたとえは祭司とレビの登場から始まる。彼らは神殿奉仕者として大切な務めを担う。身の清浄は不可欠の条件である。死体に触れることは穢れであり、道端に倒れているこの人に触れれば、それは穢れへのリスクが高まる。まして死人であれば近寄ることさえ憚れる。結果、見て見ぬ振りでその場を遠く離れて通り過ぎて行く。祭司もレビも神殿奉仕を終えた帰り道だった。もし神殿に入る前ならばより穢れを恐れ、遠く離れて行くだろう。しかし、たとえ帰りであっても彼らは助けようともしなかった。隣人であるその傷付いた者に対し、愛を実践するに至らなかった。

④「サマリア人の登場」

 傷付けられた男を助けたのは、サマリア人であったとイエスは語る。そもそもサマリア人は北のガリラヤ、南のユダに挟まれた地域。旧約では北イスラエル王国の都であった。BC8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされ、以来、異邦の民の流入と交流により混血民族となり純血を失った。これを重んじるユダヤ人はサマリア人に反感を持ち軽蔑し決別した歴史がある。サマリアには「法を守る者」という意味があり、律法に忠誠を誓っていた。それでもユダヤ人は頑なに差別意識をもって、イエスに向かって「お前はサマリア人ではないか」と侮辱したのである。

⑤「たとえと結び」

 イエスは再期に再度問い返す。「誰がその人の隣人になったか」と。この反問は律法学者の最初の問いの答えではない。彼らは「私の隣人とは誰か」という論法で迫り、誰が自分の隣人または隣人ではないかを問うている。が、イエスは人間のアイデンティティや性格、民族、言語、習慣といった様々な人間的レベルの違いを超え出でさせようとしているのである。つまり、私の隣人は誰かというレベルから、いかにしてあなたの隣人に私がなりうるかを問うていく。言い換えれば、周りの誰かが私の隣人なのではなく、初めから私が隣人ではないかと言っているのである。愛とは能動的主体である私から実践的行為であって、愛が定義するところではない。

⑥「隣人としての私」

 日本語的には隣人愛に当たる言葉に「愛他」もしくは「利他」がある。特に「愛他」は利己主義の反対語で、他者の立場に自分を置くという意味がある。自己本位で物事を捉ず、他人の思いを我が事として捉えなおすことである。ただ、これは単に他者を思うだけでは足りず、他者の立場に立って考え、行動し、生きることを意味する。愛の本質とは実践にあるのであって、言葉だけで生きることではない。愛は行動を起こし、経験されることである。このように、「隣人としての私」が、人と人とをつなぎ合わせる愛を生み出す。私からあなたに、またイエスから私に、そして神からあなたがたにと、相互の愛が互いと互いを結び合わすのである。私はそのために常に隣人として、そこに立つのである。

⑦「利他的に生きる」

 利他的に生きるとは、本来仏教から来る教えであるが、ただ他者の利のために、自分の利を与えるという意味だけではない。むしろ、他者の苦しみを自らも担い、その痛み、悲しみを取り除きたいという願望からこの言葉が生まれる。言わば、最も苦しむ人のために、自らの持つパンを与えることで、心の糧という利を得る。これは利他の意味がある。つまり、利他は自利に繋がるというわけである。おそらく「情けは人の為にならず」は、ここから由来するのかもしれない。 

 

 次回のお話の会は、2月23日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。  

 

ゴッホ絵画 「善きサマリア人」

お話の会 風景

1月21日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第11回 「イエスの12人の弟子たち」 2024年1月19日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は次のことを学びました。

「使徒と呼ばれる」

「12弟子のリスト」

「イエス一行の暮らし」

 

「使徒と呼ばれる」イエスは12人の弟子を選び「使徒」(アポストロス)と名付ける。使徒が12人であるのは、イスラエルの12部族に当てはめたことに由来し、宣教は全イスラエルにあることを意味している。これは旧約時代においてヨシュアがヨルダン川を渡ったとき、そこに12個の石を取り、神の箱の前に置いたことが記念されている。

「12弟子のリスト」12人の弟子は、各福音書で多少の違いはあるが、大筋一致している。

①ペトロ:その名の由来は「岩」から来るが、シモンとも呼ばれていて、それはシメオン(主は聞かれる)の渾名。ガリラヤの漁師でアンデレの兄弟。妻帯者であり、典型的な直情型の人間であり、思ったことをすぐ口にする。イエスが宣教活動する前から弟子であって側近中の側近。

②アンデレ:名の意味は「男らしい」。シモンの兄弟で同じベトサイダの出身。前は洗礼者ヨハネの弟子だったが、シモンと共にイエスの最初の弟子になった。地味だが陰では気配りする威張らない謙虚な男。空腹の群衆を前にパンと魚を持つ少年を連れてきたこともあった。

③ヤコブ:意味は「踵を掴む者」。ガリラヤの漁師ゼペタイの息子で大ヤコブと言われる。性格の激しさから兄弟ヨハネと共に「雷の子」と渾名された。サマリア人たちを焼き払うことを進言するほど過激だった。またイエスが王となるとき自分たちを右と左に座るよう願って、仲間の弟子たちからのひんしゅくを買い驚かせた。

④ヨハネ:意味は「主は恵み深い」。同じくゼペタイの息子で漁師。シモンとヤコブと共にイエスの側近の弟子。この3人だけは変容の山に登り、オリーブ山から神殿を臨む所でもイエスと共にいた。ゲッセマニの園でもイエスから少し離れた所に一緒だった。 

⑤フィリポ:意味は「馬を愛する者」。彼もシモンたちと同じベトサイダの出身。アンデレやヨハネと同じ洗礼者ヨハネの所でイエスと出会う。フィリポはナタナエルをイエスに紹介するが信じない。 供食の時、食料調達するのはその係であったと思われる。またギリシャ語に精通していたようである。

⑥バルトロマイ:意味は「ティマイの息子」で本名はナタナエル。意味は「神は与えたもう」。ガリラヤのカナ出身である。

⑦マタイ:この弟子を取税人とするのはマタイ9章9節だけである。マルコとルカはその名をマタイと書かずレビと書く。マタイもレビも同じ人であるという議論はまだ終わっていない。

⑧トマス:「双子」という意味だが、ディディモと呼ばれるトマスは疑い深い男であった。血気盛んな一面もあって、いよいよという時には「俺たちもイエスと共に死のう」と豪語した。復活のイエスに遭ったという話を疑い、「指を釘後に、手を脇腹に入れないと信じない」と叫んだほどである。

⑨ヤコブ:小ヤコブと称し、大ヤコブと区別されるが、実績は何も書かれていない。

⑩タダイ:タダイオスと言われ、意味は「神の贈り物」。この弟子の本名は「ヤコブの子ユダ」である。イスカリオテのユダでない方としか明記されていない。やはり実績は書かれていない。

⑪熱心党のシモン:熱心党とは「主のみ王なり」と主張するユダヤ教一派。ローマ帝国の支配とこれに迎合する権力者たちに反対する抵抗運動を貫く。本部はガリラヤにあって、実際、ペトロ、イスカリオテのユダ、雷の子らと言われたヤコブとヨハネもこの熱心党と関わりがあった。

⑫イスカリオテのユダ:イスカリオテという名はユダの渾名。ユダは都会の出身。ガリラヤ訛りがない。イエスとその一行の金入れを預かっていることから、皆の信頼を得ていた。だから、ユダの裏切りは共通していて、4福音書すべてが口をそろえて彼を「裏切り者」と呼ぶ。だが果たしてそれは真実かいなか誰も知らない。

「イエス一行の暮らし」ユダヤの荒野からガリラヤに戻ったイエスは文無しである。すでに4人の弟子がいるが、食べ物がない。生計をどう立てるつもりだったのか。とりあえずペトロの家に行き、そこで糧を得た。イエスが大勢の者たちを癒し、悪霊を追い出す業で糧を得た。これらの治療代が彼らの糧となって、一行はガリラヤ全土の旅に出たのだった。金が底をついても家具の修繕等で飢えを凌いだことであろう。

 

 次回のお話の会は、1月26日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。  

 

ルカ・シニョレッリ画 使徒たちの聖体拝領