5月15日 更新

 

 この随筆は、8年前に自分のブログに掲載したものです。当時、私は仕事の関係で群馬県前橋市に住んでいました。

 

(絵画鑑賞)竹久夢二伊香保記念館を訪ねて            岩永博史

 

 郷愁の画家竹久夢二が群馬県伊香保をたびたび訪れるようになったのは大正八年(三十六歳)の頃からであるといわれている。日本画家、挿絵画家、グラフィックデザイナー、コピーライターなど幅広いジャンルで活躍し、当時の売れっ子作家であり一時代を風靡した流行作家であった。

 しかし、実生活においては、忙殺される仕事上の疲れと、モデル女性との恋愛問題などの悩みから慌ただしい都会生活を離れ、山と湖が美しいこの静かな群馬の地を求めたものと思われる。

 竹久夢二記念館は、榛名山が見渡せる県道33号線沿いの登り坂が続く山の静粛な林の中にあり、アンテイーク様式を取り入れた美しい白壁の豪華な記念館である。

 館内に入ると、シューマン作曲のトロイメライの曲が小さな音量で流れており、大正ロマンの香りが漂うノスタルジックな雰囲気の中で、アールヌーヴォー風の夢二作品の数々を見ることができる。

 前述したように竹久夢二の作品は幅広く、日本画、油絵などの絵画作品に留まらず、婦人雑誌、児童雑誌、書籍、楽譜などの装丁、挿画の他に、広告用ポスター、舞台装飾、更には、着物、浴衣、帯、半襟のデザインまで及んでいる。

 私がはじめて竹久夢二の作品世界に接したのは小学生の頃の児童書からで、復刻本の世界童話集の装丁と挿画を見たのが最初である。展示された児童雑誌の原画を見ながら、子供の頃の懐かしい記憶が蘇ってくると共に、みずみずしい感性による童画の世界を心ゆくまで堪能することができた。

 展示品の中でもやはり一番見るべきものは絵画作品で、屏風、掛け軸などの美人画である。

 夢二独特の優雅で叙情性に富む繊細な色使いによる日本女性を描いているが、どこか頼りなげで、首を傾け何か心の中に言い知れぬ悲しみを秘めた女性たちが多い。

 特別展示室には、夢二の代表作である「榛名山賦」や「五月の朝」などの大作、力作が展示されていたが、小品ではあるが、中国の可憐な少女を描いた「王春賦」や、「青山河」、「舞妓」などの油絵による印象的な作品もあった。

 展示品の中には、夢二のデザインによる浴衣、暖簾、団扇なども展示されており興味をそそられた。

(榛名山賦)

(夢二とお葉)

 中でも強く印象に残ったものに、夢二自身が撮影した一枚の肖像写真がある。モデルは、秋田出身の三人目の専属モデルお葉で、夢二デザインによる浴衣を着て、隅田川近くにある染物店(田村屋)の縁側で、静かに庭を見つめながら夕涼みをしいるものだ。

 手に持っている団扇も夢二デザインによるもので、今では珍しい日本的情緒たっぷりの美しい写真であり、絵画作品とはまた違った別の夢二の世界を見ることができた。

 竹久夢二の記念館は他に生まれ故郷の岡山県牛窓町をはじめ、東京都文京区の竹久夢二記念館があり、機会があれば是非訪れてみたい。

(お葉の写真)

5月1日 更新

 

(創作童話)花の咲かない桜の木    岩永博史

 

 その桜の木は、あまり人の通らない公園裏の通りにただ一本だけで立っていました。困ったことに、春になっても花が咲かないので、だれもこの木のそばにやってきませんでした。

 あるとき、一羽のつばめが遠い土地から飛んできて、この桜の木の枝にとまりました。

「季節はもう春ですよ。ほかの桜の木たちは、みんな美しい花を咲かせているのに、どうしてあなただけ花を咲かせないんですか」

 桜の木は、眠そうな様子で、

「おれは、ずいぶん気まぐれな木なんでね。春が来ようが来まいが、そんなことはどうだっていいんだ。花を咲かせたいときだけ咲せますから。それにこんな場所で花を咲かせてもだれも見にきてはくれませんよ」

 つばめをそれをきくと、

「あなたはずいぶん変わり者ですね。あなたのような桜の木をわたしは見たことがありません」

「そうかね、別にそんなことおれには関係がないことだよ。どおれ、また昼寝でもするか」

 桜の木は、いつもそんなことをいって一輪の花も咲かせずにいました。

 ある日のこと、桜の木は、いつものように広い空を見上げていました。

「空っていうのはうらやましいものだ。自分たちの感情を自由に表現できるからな。機嫌がいいときは抜けるような青空だし、機嫌が悪くなると真っ暗になって、ビュービューと風を吹かせ、ゴロゴロと雷を鳴らして大雨を降らせる。そしてまた機嫌が良くなると明るくなって、七色の美しい虹が現れたりする。じつにうらやましいものだ。

 ところが、おれたち桜の木はどうだ、気分が悪くても春になったら花を咲かせなくちゃいけない。それに咲く花はいつもお決まりのピンク色と決まっている。形も大きさも同じで、うれしくもないのにみんなと一緒に笑っていなくちゃいけない。桜の木にもちゃんと個性があるのに。

 それはおれたちばかりじゃない。ほかの花たちだってそうだ。どの花にもちゃんと個性があるのに、それをひとつにしか表現することができないなんて悲しいことだ。車の排気ガスでお腹が痛くなったときは花びらが青色になったり、楽しいときは黄色くなったり、恥ずかしいときは赤くなったりしてもいいじゃないか。松林の向こうに見える海だっていつも表情が違うじゃないか」

 桜の木はいつもそんなことをつぶやいていました。

 ある年の春の夜、公園に明るい灯がともりました。今日はお花見でした。町の人たちがたくさんやってきました。

たくさんの入場客が、満開の桜の木の下で宴会をしています。みんなお酒を飲んだり、バーベキューをしたり、歌をうたったりとても賑やかです。

明るい提灯の下で、夜遅くまで、賑やかな声がたえません。

 でも、公園裏の一本の桜の木だけは、そんな光景を、ただひとりあきれたような顔をして眺めていました。

「毎年、あれだ。桜たちは、みんなバーベキューの匂いや、お酒のぷんぷんする匂いを一晩中かかなくちゃいけないんだ。おれだったら、すぐにでも公園から出て行くのにさ。みんなよくじっと我慢していられるな」

 でも、そんなことをいっている桜の木でしたが、自分が立っている木の周りには、人の話し声もしなければ、春になっても根雪が残ったままで、いつもひんやりしていました。春になると決まってやってくるつばめも、近頃はぜんぜん来なくなりました。

 そんなある日のことです。桜の木はふとこんなことを考えるようになりました。

「だけど、花も咲かさないで、こんなさびしいところでいつまでも生きていてもしかたがないな。やっぱり誰かのために花を咲かせたいものだ」

 この桜の木が立っている通りの向かい側に一軒の古いアパートがありました。いままで、誰も住んでいなかったのですが、ある日、ひとりの若い女性が部屋を借りて住み込みました。

昔は恋人もいて、楽しい暮らしをしていましたが、いまはひとりで寂しく暮らしていました。

 その女性はいつもパソコンに向かって小説を書いていました。それを自分のブログに載せていました。でも、精彩のない自分の書いたものに少しも満足していませんでした。

 桜の木は、そんな様子を眺めているうちに、いつしかこんなことを考えるようになりました。

「この寂しそうな女性のために、めいっぱい美しい花を咲かせてあげたらどうだろう。きっと色彩のある明るい小説が書けないだろうか」

 桜の木はそれを試してみることにしました。

 ある朝、その女性が部屋の窓を開けたとき、いつもの桜の木にいくつもの美しい花が咲いていました。周りが暗かったせいか、その花だけがひときわ綺麗に見えました。

 女性は、それからというものその桜の木を見るのが楽しくなってきました。でも、女性の心を動かしたのは、毎日見ているその桜の木が、季節に関係なく花を咲かせ、日によって色が変わることでした。まるで人間の感情を持っているような木に思えたのです。

 それ以来、その女性の書く小説は明るくなり、内容も面白くなってきたのです。

 ある日、女性は、その桜の花をデジタルカメラで撮影すると、自分のブログのデザインにしました。

 そして花の色が変わるたびに画像を変えていきました。その桜の花をデザインしたブログは、次第に読者の間で評判になりました。

 ある日、読者の中に、この女性と別れた昔の恋人が遠くの町でこのブログを観ていました。そして小説も読んでいました。作者の名前は仮名で、誰の作だかわかりませんでしたが、その小説の筋は、恋人を失った女性が新たな希望を持って力強く生きて行く様子が明るい気分で書かれていました。追憶の場面で、昔、自分と別れたある女性の思い出とそっくりな出来事が綴られていたのです。

「まさか」と、恋人は思いましたが、「そんなことはない、きっと偶然に違いない」と思い返したりしました。

 色彩の変わる桜の花をデザインしたそのブログと、その女性が書く小説は、またたくまにネットの世界で知られるようになりました。

 そしていままで誰にも知られなかった公園裏の一本の桜の木も、ネットを通じて全国で一番知られる木になりました。

 

「信者のコーナー」について

 

西舞鶴教会の信者の皆さんからの原稿を募集しています。エッセイ、コラム、旅行記、読書感想、創作(詩、俳句、短歌、その他)など自由です。またオリジナル写真、絵画などもOKです。字数の制限はありません。どしどし送って下さい。作品はこのコーナーで紹介します。原稿はワードを使い(縦書き、横書きは自由)、タイトル、作者名を忘れずに記載し、下記メール宛てお送りください。直接担当者(岩永)に提出して頂いてもいいです。(原稿は手書きでも構いません)

 

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4月17日 更新

 

読書感想六の宮の姫君 芥川龍之介    岩永博史

 

 芥川龍之介の王朝物の最後の作品。時代は平安時代。箱入り娘として何不自由のない少女時代を過ごしていた姫は、両親の相次ぐ死によって生活はしだいに困窮を極めて行く。頼れる人は乳母のみだ。そんな生活の中でも、姫は両親の躾どおり、琵琶を弾いたり、歌を詠んだりするだけの生活は変わらない。ある年、縁談のはなしがあり、心優しい男がやってくるが、姫にとってはそんな男の愛情にも無関心なのだ。その後、男は赴任のために家を離れるが、その間に京の六の宮の屋敷は無くなり、赴任を終えて京へ帰ってきた男は、ある貧しい家の中で、姫が衰弱して床に伏せている姿を見る。姫はうなされながら幾度も幻覚を見るがついに死んでしまう。この世で善いことも悪いこともしなかった姫は、極楽のことも地獄のことも知らずにその霊がいつまでもこの世に漂っている。純真で世間知らずの人間の悲しみが感じられる不思議な作品である。

 

 

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4月2日 更新

 

(創作童話)不思議なピエロの絵    岩永博史

 

 ほんとうに不思議な絵でした。世界中にこんな絵はどこにもありません。一輪車に乗ったピエロを描いただけの絵ですが、それがほんとうに不思議なのです。

 この絵ははじめ町の小さな画廊で売られていましたが、あるお客が買い取って、家に飾っていました。ところがどうしたわけか、変なことばかり起こるのです。

  夜眠っていると、台所から、ぼりぼりと何か食べている音が聞こえてきたり、パイプの匂いが漂ってきたり、まったくおかしなことばかりでした。

「気味が悪いな。あの絵のせいだ」

 さっそく物置にしまって、処分しようと思っていました。

 ところが、ある日、絵はなくなっていたのです。だれが持って行ったのかさっぱりわかりません。

 数日後、この絵は別の家に飾ってありました。

「玄関を開けると置いてあったんだ。誰が持ってきたのかわからない。でも、タダで貰えてよかった」

 ところが、ある深夜、この家でも変なことが起きました。居間からテレビの音が聞こえてきたり、ポテトチップを食べている音が聞こえるのです。

「お化けがいるのかな」

 そっと居間へ歩いていくと、音は急にしなくなりました。

「変だなあ」

 この家の人も気味が悪くなって、絵を売りに行くことにしました。でも、ある日、居間へ行くと絵はなくなっていたのです。

 月がきれいな夜のことでした。

 町の電信柱の電線の上を一輪車が走っていました。一輪車の上に一枚の額縁が乗っていました。月の光で絵が見えました。ピエロの絵でした。

 ピエロは額縁を担いで一輪車のペダルを漕ぎ、となり町へ向かっていました。

人や車がいないときは、国道へ降りて走りました。橋を渡って川沿いの道を走っていると、川のそばに一軒の家がありました。明るい部屋の中で、男の人がマンドリンを弾いていました。

「つぎはあの家にやっかいになろう」

 玄関の前へやってくると、チャイムを鳴らしました。

 男の人が出てきました。でも誰もいません。ドアのそばに一枚の絵が置いてありました。

「面白い絵だ。誰が持ってきたのかな」

 変に思いましたが、せっかくなので部屋に飾ることにしました。

 男の人は絵を眺めながら、いつもマンドリンを弾いていました。

 ところがある夜眠っていると、音楽室からトレモロの音が聞こえてきたのです。

「泥棒が入って弾いてるのかな」

 忍び足で音楽室へ行きました。ところが部屋のドアを開けようとしたとき音はしなくなりました。

「やれやれ夢か」

 でもまたある夜も聴こえて来たので、気味が悪くなって絵を手放すことにしたのです。

 男の人の友人に、子供ミュージカルの脚本を書いている作家を知っていたので、その人にあげることにしました。

「不思議な絵だけど、飾ってみないか」

「じゃあ、いただくよ」

 その友人は、書斎の壁に掛けて、いつも眺めていました。絵を見ながらサーカスの話が書きたくなってきました。毎日原稿を書いていました。でも何度も行き詰りました。

「やれやれ、やっぱりサーカスの世界をよく知らないと書けないな」

 半分諦めていると、ある夜、書斎でカサカサと原稿を書いている音が聞こえてきたので目が覚めました。でも、すぐに音はしなくなったのでそのまま眠ってしまいました。

 翌朝、机の上を見ると、サーカスの脚本が出来あがっていました。

「誰が書いたんだ」

 読んでみると、サーカスの世界のことがよく書けています。それにたいへん面白いので、今度の公演で使おうと思いました。

 ところがその作品が出来上がった翌日にピエロの絵はなくなっていたのです。

 ある夜、ピエロの絵が電線の上を走っていると、公園のベンチの上で何か光っていました。

「あ、ハーモニカだ」

 誰かが忘れていったのです。

 欲しくなったので、ベンチに行くとハーモニカをもらってきました。サーカスにいた頃はお客さんの前でずいぶんハーモニカを吹いたものでした。

 月の光を浴びながら、ピエロはハーモニカを吹きながら走りました。

 広い田畑を走り、やがて丘の向こうに砂浜が見えてきました 

 海が見える寂しい浜辺に、白壁の家がありました。電灯がついた部屋に絵がたくさん飾ってありました。その家は絵描きさんの家でした。

 ピエロはそれらの絵に見覚えがありました。

「サーカスの仲間たちだ」

 電線から降りて、アトリエの中を見ました。

「思い出した。おれはこの部屋で描かれたんだ。ずいぶん昔だったな」

 記憶が蘇ってきました。

 ピエロがサーカスの人たちとこの町へやってきたとき、モデルになってほしいというので、このアトリエにみんでやって来て描いてもらったのです。

 サーカスの生活は楽しいものでしたが、その後、サーカスは経営不振で解散し、ピエロも浮浪者になってしまいました。みんなもどこにいったのかわかりません。

 サーカスの絵たちは、アトリエの中でみんな静かに眠っていました。

 窓の鍵はかかっていなかったので、そっと中へ入りました。

 ピエロの絵も、自分が住んでいた家がみつかったので、安心したように眠りました。

 朝がやって来ると、この家の絵描きさんが、部屋に入ってきました。でも、しばらくはピエロの絵に気づかないまま、いつものようにキャンバスに向かって絵を描いていました。

 

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3月16日 更新

 

(読書感想)失われた地平線 ジェイムズ・ヒルトン著   岩永博史

 

 最近読んだ小説の中で、一番印象に残った作品なので感想を書いてみる。この小説は過去2回映画化されている。(文庫本267ページ)

 行く先も理由もわからないまま謎のパイロットが操縦する旅客機に乗せられて辿り着いた所は、チベットの奥深い山岳地帯だった。その山には僧院があり、4人の乗客はしばらくそこで生活をする。暮らしは快適で不自由さは感じない。しかし死ぬまでここで暮らすことなど出来ない。4人のうちのほとんどは、ここから逃げ出して自分たちの国へ戻る方法を考える。

 ある日、ここでの暮らしに喜びを感じはじめた主人公は、僧院の尊師に呼ばれて面会する。老齢の尊師は博学温厚な人物で、この国では極端なものの考え方を嫌い、何事も中庸を守っており、それに従って生きれば年を取ることもない。事実、尊師は200歳である。この国の掟はただひとつ、この国から出ていかないことだけだ。シャングリ・ラと呼ばれるこの国はこの世の理想郷なのだ。極端なものの考え方に振り回されている俗世間と対比しながらこの国のすばらしさが語られるユートピア小説。

 なぜ4人はこの国へ連れてこられたのか。過去に多くの人がやはりこの僧院へさらわれてきたが、それは死期まじかの尊師の後継者を見つけるためだった。

 

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3月3日 更新

 

(創作童話)アコーディオン物語        岩永博史

 

 私はもう三十年も前に作られたアコーディオンです。当時の値段で十万円でした。仲間のアコーディオンたちと同じ工場で作られたのです。みんな今頃どんな所で使われているのか、久しぶりに会ってみたいなあとときどき思うことがあります。

 私は仲間のアコーディオンたちと別れてから、ある町の楽器屋さんの陳列棚に置かれました。このお店には、ほかにもピアノやエレクトーン、ドラム、フルート、トランペット、クラリネット、それにギターやマンドリン、ヴァイオリンなども取り扱っていました。

 このお店には2週間くらいいましたが、ある日、一人のお客さんに買われました。その人はサラリーマンで、仕事が休みのときはいつも自分のアパートの中で弾いてくれました。最初の頃はうまく弾けなくて、いらいらしたあげく私の体をバンバンと叩くこともありましたが、日に日に上手くなってからは、そんなことはしなくなりました。

 その人は、昔の歌謡曲やフォークソングなどをよく弾いていました。

 上達してからは、会社の忘年会や新年会に私を連れて行ってくれて、みんなの前で演奏したこともありました。私も美しい音色を響かせたものです。

 ところが、仕事が忙しくなってからは、少しも弾いてくれなくなりました。私はいつも部屋の片隅に置かれるようになりました。

「もう一度、音を出したいなあ」

私はいつも思っていました。

 ある日、アパートに友だちが尋ねて来ました。

「仕事が忙しくて弾かないのだったら、おれに安く譲ってくれないか。家の子供に弾かせたいから」

といいました。

 サラリーマンの人はすぐに承知して、その友人に安い値段で売ってあげました。私はこのアパートを出ることになったのです。

 数日してから、私は新しい家で、その家の子供さんに弾かれるようになりました。

 その子は、大変練習熱心でしたから、毎日弾いてくれました。でも、その子の体には少し大きすぎるのか、蛇腹を開くのにいつも苦労しているようでした。その子の弾く曲は、童謡やアニメソングばかりでしたが、いつも楽しく弾いてくれました。

 そして自分の誕生日には必ず、家族の人の前で弾きました。わたしも大変ご機嫌でした。

 そうやって数年間、私はこの家で暮らしていましたが、その子がピアノ教室へ通うようになってからは、いつもピアノの練習ばかりするようになって、私はまた部屋の隅で暇な毎日を送っていたのです。

 あるとき、お父さんが「取り引き先の会社で楽器をやりたがっている人がいるからこのアコーディオンを譲ってあげよう」といいました。

 その子も賛成したので、私はこの家を出ることになりました。

 次の家の人も、よく私を弾いてくれました。でも、ぜんぜん素人で楽譜も読めないので、最初はずいぶん変な音ばかり出していました。

 仕事が休みの日は、いつも近くの河原へ行って練習していました。でも、何年かしてその人の会社が不景気で倒産してしまうと、その人も失業してしまいました。

 ある日、いつもの河原でアコーディオンを弾いていると、チンドン屋さんがそばを通りかかりました。男の人はチンドン屋さんに雇ってもらことにしました。

 チンドン屋さんの衣装を借りて、一緒にいろんな町を歩くことになりました。冬の日も、夏の日も、あちこちを歩き回りました。

 私は冬の寒さには平気ですが、夏の暑さは苦手なんです。鍵盤の部品には蝋(ろう)が使われているところがあるので、強い日射で溶けてしまうこともあるのです。

 この町では、年に一度全国のチンドン屋さんがあつまって大会をするイベントがありました。たくさんのチンドン屋さんたちの中で、わたしも大きな音を出して歌いました。

「ひょっとして、昔の友だちがいるかもしれない」

 周りを見渡しましたが、あいにく知っているアコーディオンの友だちはいませんでした。でも、外国製の珍しい木製のアコーディオンや、蛇腹がものすごく伸びるバンドネオンを弾いてる人もいて、たくさんの友だちができました。

 一台の木製のアコーディオンは、むかしパリの街に住んでいて、街頭でいつもシャンソンを弾いていたそうです。「パリの空の下」、「アコーディオン弾き」、「パリのお嬢さん」などをいつも弾いていたそうです。

私も話を聞きながら、一度でいいからパリへ行ってみたいなあと思ったりしました。

 賑やかなイベントが終わると、翌日からはいつものようにチンドン屋さんの仕事をしました。毎日楽しく仕事をしていましたが、、あるとき、親方が病気になってからはこのチンドン屋は突然、廃業してしまったのです。

 男の人はまた失業してしまいました。でも、それからすぐに次の仕事を見つけることができました。

 ある日、公園のベンチに座ってアコーディオンを弾いていると、今では珍しい紙芝居のおじいさんが自転車を引いてやってきました。

荷台から、紙芝居の道具を取り出して準備が終わると、拍子木を打ち鳴らしました。公園にいた子供たちが母親に連れられてやってきました。

みんな揃うと、さっそく紙芝居の始まりです。

出し物は今では珍しい、「黄金バット」と「少年タイガー」を観せてくれました。

 おじいさんの流暢なおしゃべりにみんなひきつけられるように聞いています。

 紙芝居が終わると、男の人はおじいさんのそばへ行きました。

「面白かったです。私の伴奏があればもっと稼げますよ」

「そうだなあ。音楽が入っていると、もっと雰囲気がでるな。じゃあ、やってもらおうか」

話がまとまって、次の日から、町々を一緒に歩くことになりました。

男の人がいったように、どの町でもすごい人気でした。

 でも、このおじいさんも、やがて商売が出来なくなって廃業になりました。

 ある日、この町に小さなサーカスがやって来ました。「従業員募集・楽器が弾ける方」の張り紙がテントの柱に付けてありました。

男の人は行ってみました。アコーディオンが弾けるので雇ってもらえました。

 このサーカスは全国のいろんな町へ興行に行きました。フェリーで海峡を渡っているときでした。

海がシケて船酔いに悩まされたことがありました。船室で静かに寝ていたとき、気晴らしに男の人がデッキで、アコーディオンをみんなの前で弾きました。空は青くて、海の眺めもきれいでしたが、私は気分が悪くて、いつものような陽気で明るい音は出ませんでした。

「おかしいな、音が変だぞ、こわれたのかな」

男の人はそんなことをいっていました。

 このサーカスで評判なのは、空中ブランコでした。

 

  ♪    空にさえずる 鳥の声

   峯(ミネ)より落つる 滝の音

   大波小波 とうとうと

   響き絶やせぬ 海の音 ♪

 

「美しき天然」の伴奏で、軽業師がブランコに乗って芸をします。私は音を出しながらその芸をいつも下から眺めていました。でも、よくあんな高い所で芸ができるものだなといつも感心していました。

 このサーカスには5年ほどいましたが、そのうち、サーカスが大きくなって、プロの楽団が入るようになってから、アコーディオンの伴奏はいらなくなりました。

「もう君は必要なくなった」

団長にいわれて、男の人はサーカスを辞めることになりました。

 ある日、男の人が公園のベンチでアコーデオンを弾いていると、知らない人に声をかけられました。

その人は、この町のフォークダンスサークルの会長さんでした。

「上手いもんだ。どうだい私のサークルに入ってくれないかい。これまで伴奏してくれた人が高齢で弾けなくなったから、代わりの人を探していたんだ」

「いいですよ。じゃ、やりましょう」

男の人は、今度はフォークダンスサークルの伴奏者になりました。

 ある日の日曜日、サークルの人たちと一緒に、山の高原へ行くことになりました。その日は、全国のフォークダンスサークルの人が集まるお祭りで、みんなと一緒に自動車で出かけていきました。

山道を登りながら、車のトランクに積まれた私は、あまりゆれるので、また気分が悪くなったりしました。

 やがて、美しい高原が見えてきました。色とりどりの美しい花が咲いていて、ぷんぷんといい匂いがしてきました。

行く手に、たくさんの車が見えました。そしてたくさんの人の姿も見えました。みんなチロルの民族衣装を身に着けて、お祭りがはじまるの待っているのです。

 お祭りの会場に到着すると、会長さんが男の人をみんなに紹介しました。

 そのときでした。どこかから声が聞こえてきました。

「おーい、久しぶりだな。おれだよ」

振り向いてみると、一台のアコーディオンでした。昔同じ工場で作られたアコーディオンでした。

「いやあ、このサークルにいたのか。ひさしぶりだな」

 そういっていると、別の方からも声がしました。

「おーい、覚えているかい。おれだよ」

 そのアコーディオンも昔同じ工場で作られた製品でした。どのフォークダンスサークルのアコーディオン伴奏者も年配者ばかりだったので、当時売られていた同じ製品のアコーディオンをみんな使っていたのです。

久しぶりの再会に、私たちはその日一日、楽しく語り合いました。

 このフォークダンスサークルでは、月に何回か、デイサービス施設や、老人ホームなどへ慰問にいったり、夏は、高原で、バーベキュウー大会をやったりしているのです。

 高原のきれいな空気を吸いながら、フォークダンスを踊るのはとても気持ちがいいものです。

 男の人は、高原のきれいな空気を吸いながら、さらに演奏も上手くなり、友達もたくさんできて、今でもそのサークルでアコーディオンを弾いています。

 

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2月16日 更新

 

(読書感想)影をなくした男        シャミッソー作     岩永博史

 

 ドイツの詩人、アーデルベルト・フォン・シャミッソーが1814年に発表したメルヘン風の中編小説。自分の影を売った男の運命を描いている。

 あるとき、灰色の服を着た男から、いくらでも金貨が出てくる金袋と引き換えにあなたの影を売って欲しいと頼まれる。貧乏な主人公は影を売ってしまう。しかし影を売ったために人々から批難され、お金持ちになったにもかかわらず結婚も出来ず、人目を避けながら放浪者となる。人間が生きていくうえで影などなくてもいいようなものであるが世間は許してくれない。「影のない奴に娘はやれん」娘の父親は婚約を解消させる。どこへいっても不気味がられる主人公は、灰色の男を捜し回り、自分の影を取り返そうとする。ある日、灰色の男と再会するが、男は影を返してくれない。それどころか魂まで欲しいと言い出す(この人物は悪魔だった)。世間からも灰色の男からも逃げる主人公は再び放浪者となる。しかしあるとき幸運が舞い込んだ。ある町で不思議な靴を買ったのだ。その靴は一歩で七里を歩くことができる魔法の靴であった。主人公は生まれ変わったように世界の隅々を探検して回る。そして自分の本来の目的に気づく。主人公は植物学、自然体系学などの自然研究家として新たな人生を歩む。これらの研究はお金よりも、影のことよりも、世間のことよりも主人公がやりたいことだった。だから世間の冷たい目も、影のこともすっかり忘れて世界中を掛け回る。小説の後半は明るさと意外性があり、とても印象に残る作品。

 

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2月1日 更新

 

(創作童話)冬の日の電信柱             岩永博史

  

 ビュービューと冷たい北風が吹いてきて、電信柱は困ったようすで独り言をいいました。

「ああ、今年の冬も、ずいぶん寒いな。電線たちもビーン、ビーンと寒そうに唸っている」

 空は、灰色の雲に覆われて、雪も降ってきました。

「今夜もこれじゃ、明日はまた風邪をひいちまうな」

 そのとき、どこからかチャルメラの音が聞こえてきました。

「ああ、ラーメン屋だ。ありがたい、どうかおれのそばで営業してくれないかな」

 去年の冬も、ラーメン屋がこの場所で屋台を出したのです。営業してくれると都合がいいのです。ラーメンのほんわかしたいい匂いと湯気が、電信柱を暖かく包んでくれるからです。それはまるでサウナにでも入っている気分でした。

 思っていると、ラーメン屋がそばで営業をはじめました。白髪頭のおじいさんで、暖かそうなジャンバーを着て、お湯を沸かしはじめました。その湯気が上の方まで登ってきます。

「ああ、暖かい」

 電信柱が気持ちよさそうにしていると、駅の方から人が歩いてきました。

「ラーメンひとつたのむよ」

「へい、お待ちください」

 白髪頭のおじさんは、さっそく作り始めました。

鶏ガラのなんともいえないスープのいい匂いが屋台の周りにも広がります。電信柱もその匂いをかいて大満足です。

 そのあとからも、会社帰りの人や、飲み屋帰りの人がこの屋台に立ち寄りました。

 夜も遅くなって、おじさんは屋台を閉めると、家へ帰って行きました。電信柱は、また寒い時間を過ごさなければならないのです。

 電信柱が寒そうにしていると、いつものカラスが電線の上にとまりました。

「おじさん、帰ったのかい」

「ああ、帰ってしまった。明日もまたここで営業してくれたらいいけど」

「また来るさ。いいもの持って来たんだ」

「なんだい、いいものって」

「ゴミ箱でみつけたんだ」

「ほう、使い捨てカイロか」

「少しだけど、これを体に巻きつければ少しは暖まるよ」

「ありがとう」

 電信柱は、ぺたぺたと使い捨てカイロを体に貼り付けました。

「ああ、なんだか暖かくなってきたような気がする」

「しばらくはそれで寒さをしのげるよ」

 カラスは、ときどき気を利かして暖のとれるものを持ってきてくれるのです。あるときは、毛糸のマフラーを持ってきてくれたこともありました。それを首に巻いて眠ったこともあったのです。

 ある夜のこと、ひどい大雪が降って、翌朝は雪がずいぶん積もりました。歩行者が雪で転んだりしました。

 夜になってからラーメン屋のおじいさんもやって来たのですが、屋台を引っ張っていたとき滑って足を骨折してしまいました。おじさんは商売が出来ずに、その後ラーメン屋はまったく来なくなりました。

 あるとき、電信柱は、ふと町の方を眺めてみました。

「ああ、町の電信柱がうらやましいな。あそこは電灯がいくつも付いているから夜も明るいし、電灯の熱で暖かいんだ」

 電信柱がいうように、この通りは電灯も少なくてずいぶん寒いのでした。

「一番いいのは、銭湯のそばに立っている電信柱だ。銭湯の湯気がときどき窓から流れてくるし、煙突の熱が周りにいつも広がって暖かい。おれもあそこに立っていたかったなあ」

 ある日のこと、この場所が薄暗くて歩行者が歩きにくいということで、電灯が何個か付けられました。

「やったあ、これで少しは暖がとれるな」

 電灯の熱で、ほかほかと暖かく電信柱はニコニコ顔です。

 また電灯が付いたせいで、ときどきおでん屋がやってくることもありました。

おでんのいい匂いと、熱燗の匂いが上の方まで漂ってきます。

「ああ、毎年、こうして来てくれたら、冬はいつも暖かく過ごせるな」

 ところが、ある年になって困ったことがおきました。

この通りの向かい側に、コンビニが出来たのです。お客さんはみんなコンビニでおでんを買うので、いままで営業に来ていたおでん屋が来なくなってしまったのです。

 電信柱は、また寒い冬を過ごさなければならなくなりました。

 

「信者のコーナー」について

 

西舞鶴教会の信者の皆さんからの原稿を募集しています。エッセイ、コラム、旅行記、読書感想、創作(詩、俳句、短歌、その他)など自由です。またオリジナル写真、絵画などもOKです。字数の制限はありません。どしどし送って下さい。作品はこのコーナーで紹介します。原稿はワードを使い(縦書き、横書きは自由)、タイトル、作者名を忘れずに記載し、下記メール宛てお送りください。直接担当者(岩永)に提出して頂いてもいいです。(原稿は手書きでも構いません)

 

送り先メールアドレス

iwanaga75sq-hiro@yahoo.co.jp

1月21日 更新

 

(映画鑑賞)『殉教血史 日本二十六聖人』は、1931年10月1日に公開された日活映画(無声映画)である。    

豊臣秀吉の時代、フランシスコ会のスペイン人神父ペドロ・バプチスタたちが日本へやってきて、京都を中心にした畿内への布教活動を行っていた。はじめキリスト教に寛容であった秀吉であったが、スペイン船の難破事件が起こり、次第に教会を弾圧し始める。神父や信徒らを捕らえて見せしめのため徒歩で長崎へ連行し処刑していく。

当時の武士の傲慢さ(貧しいものへの虐げ)や教会に盗みに入った強盗に罪の意味を教える神父の寛大さなど印象的なエピソードが多く、よくできた完成度の高い映画である。戦後、カナダのトロント管区から西舞鶴の教会へやってきた、当時30代前半のファーザー・ジェームスは、この映画を観て日本への布教を強く熱望した。(舞鶴カトリック教会史 シスター加藤筆より) 岩永博史。

 

監督 池田富保

脚本 池田富保

ヘルマン・ホイヴェルス

原作 エメ・ヴィリヨン

製作 平山政十

製作総指揮 池永浩久

出演者 山本嘉一

三桝豊

伏見直江

山田五十鈴

片岡千恵蔵

撮影 酒井宏

製作会社 日活(太奏撮影所)

公開 1931年10月1日

上映時間 152分

製作国 日本

言語 日本語

 

1月7日 更新

 

(創作童話 カニの建てたお城              岩永博史 

 

 むかし、イギリス南西部のウエイマスの砂浜に、たくさんのカニが楽しく暮らしていました。

 カニたちは、丘の上に建っているお城を見ながら、

「どうだい、おれたちもあんなりっぱなお城をたてようじゃないか」

「そうだな、やってみよう」

 ある日カニたちは、カニの大工さんと相談して作りはじめました。

 砂浜の砂をかき集めてきて、高く高く積みあげていきました。

 波で押し流されないように、海から離れた場所に作りました。

 一か月ほどして、とうとうお城ができました。

 カニたちはお城の中に、イスやテーブルを運んでワインで乾杯しました。

「思ったよりりっぱなお城が出来た。さて、よそ者が来ないように毎日交代で見張りをしよう」

 作業のあいだヤドカリたちがじっと見ていたからです。 

 お城はずいぶん頑丈で、風が吹いてもびくともしません。

 カニたちはお城の中で昼寝をしたり、チェスやトランプをしたり、楽しく暮らしていました。

 ところがある日、空が曇ってきて大粒の雨が降ってきたのです。

 またたく間に大降りになりました。

「逃げろ!」

 昼寝をしていたカニたちは、急いでお城から出ました。雨のせいでお城はつぶれてしまったのです。

 カニたちはがっかりしましたが、

「今度は雨が降ってもつぶれないお城を建てよう」

 カニたちはみんな相談をはじめました。

 ある日、岩場を散歩していたカニがお城を建てるのに都合の良い場所を見つけてきました。

「むこうの岩場に洞穴がある。あの中に建てようじゃないか。雨が降ってもだいじょうぶだ」

 みんな賛成しました。

 ある日お城作りを開始しました。

 洞穴の中は涼しくて、作業はずいぶんはかどりました。

 雨が降ってきても大丈夫なので、予定より早く完成しました。

 カニたちは、またイスやテーブルを運んでチェスやトランプで遊びました。

「どうだい、洞穴の中はよく音が響くから、音楽会をやらないかい」

「そうだ、演奏家を招待しよう」

 お声がかかって、カニの演奏家がたくさん呼ばれました。

 ギター、リュート、マンドリンのアンサンブルがお城のホールで演奏されました。

 ホールはずいぶん音響がよくてみんな幸せそうに耳を傾けていました。

 あるときは、パイプオルガンが運ばれてきて壮大な演奏会が行われました。

 洞穴の中に厳粛な音色が響き渡りました。

「お城をもっと大きくしよう。オーケストラの演奏も聴いてみたい」

 カニたちは、バッキンガム宮殿に負けないくらいのお城をつくりはじめました。

 

(オリジナルイラスト)

「信者のコーナー」について

 

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