12月26日 更新

 

次回のお話の会は、都合により1月19日(金)に変更になりました。

 

12月9日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第10回 「罪を赦すイエスの愛」 2023年12月8日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

今回は次のことを学びました。

「人の悪しき欲望」

「神の意志」

「祝福と恵み」

「神のゆるしとその心」

「罪の負債」

「原罪とは何か」

 

「人の悪しき欲望」。人は悪しき衝動や良くない思いとしての罪の性質を持っており、これを否定することはできない。しかし神の意志を行おうとする願いは持っている。つまり人は誰でも良いことをしようとする意志は持っているのにそれを実行できないのである。

「神の意志」。人は自らの果てしない内なる欲望を乗り越えなけらばならない。何とかして我が肉の思いを克服しなければならない。しかしこれは決して容易なことではない。イエスは神のみ心を行うことのよって、この罪の傾向を克服できると考えるのである。

「祝福と恵み」。「み心」と表現するとき、それは神の祝福であり、恵みのことを意味する。神は初めから愛を持って、罪深きわたしたちを愛しておられのです。だから、あなたも人を赦しなさいと教えるのです。(主の祈り)「み心が行われるように」と祈るのは、「神が赦すがごとく、あなたも人を赦せ」ということで、それがイエスの教えの根底にある。

「神のゆるしとその心」。マタイ福音書18章に「ゆるさない僕」というたとえ話がある。ある王がその家来たちと決済をした時、膨大な負債のある家来がその借金をすべてが赦されたにも関わらず、小さな負債がある仲間の借金を赦さなかったという話である。人の罪を赦さないなら、神もその人を赦さない。これがイエスの教えである。

ゆるす心とは、「隣人から受けた不正を赦せ、そうすれば祈り求めるとき、お前の罪は許される」「人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主から癒しを期待できよう」「自分と同じ人間に憐みをかけずにいて、どうして自分の罪のゆるしを祈りえようか」。神から赦しを得たいなら、まず人を赦すこと、これが愛の教えである。

「罪の負債」。ルカは「負い目」という言葉を「罪」という言葉に置き換えた。「負い目」とは、相手に対して自分が感じる心の負担である。つまり良心の呵責であり、自責の念である。その意味は心の根にある罪悪感である。それは心理的にも非常に心が重く、時には耐え切れないほどの苦痛である。そのような心の負い目の縄目を解いてあげれば、人はどんなに安心するであろう。イエスはそのような心の重荷を解いて、自らこれを担われた方なのである。

「原罪とは何か」。原罪とは何よりも神への反抗であり、その交わりを自ら断つという積極的な人間の自由意志の行使を意味する。だからこそ目覚めて回心し、意図的な悪意を悔い改めなければならない。そうしないとゆるしは与えらない。これが教会が定める掟であり約束である。重大な罪の違反がない限り、人は罪の縛りから解放されている。

 

次回のお話の会は、1月12日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで。

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

お話の会 風景

西舞鶴教会リグリアンホール


11月27日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第9回 「イエスの洗礼」 2023年11月24日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は次のことを学びました。

「イエスの洗礼」

「象徴言語としての鳩」

「神の介入」

「3つの試み」

「試練に耐えるイエス」

「罪への傾きに陥らないよう祈る」

 

 今回のお話では、先ず、イエスが受けた洗礼と人間の洗礼との違いについて学びました。人間は自分の罪を悔い改めるために、また原罪を弱めるために洗礼を受けるが、イエスには罪がなく、その手続きは必要としない。イエスが受けた洗礼は命を生かす霊(聖霊)の働きを強めるためのものだった。それが根本的に違っている。洗礼者ヨハネもイエスがはじめ訪れたときそのことが分かっていなかった。

「象徴言語としての鳩」については、鳩は旧約聖書(レビ記)の動物の規定にあるように汚らわしい鳥に指定されていない。また、鳩は旧約時代には生贄としても使われていた。創世記(ノアの箱舟)にも、ノアは鳩を飛ばして大洪水が終わったことを知った。鳩は平和のシンボルとされている。

「神の介入」~「罪への傾きに陥らないよう祈る」では、荒野に出かけたイエスが悪魔から3つの誘惑を受ける。肉の欲、目の欲、生活の欲について試される。イエスは律法の言葉を用いてこの欲に打ち勝つのである。人は飢えはじめると神に助けを求める。しかし自分勝手な都合を神に押し付けることは戒められている。「主の名をみだりに呼ぶな」とはその意味である。しかし試練という苦行の枠を超えるようなものは、もはや(悪の力の支配)であり、自分で耐えられるものではない。そのようなときこそ「どうかサタンや汚れた霊が、また、どのような悪も私を支配しませんように」と祈るのが大切である。(主の祈り)は、人の弱さに付け込んで罪の力を服従させようとする悪に抗う祈りであり、私たちを罪に陥らせないように歎願する祈りなのである。

 

次回のお話の会は、12月8日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

サンドロ・ボッティチェリ「キリストの試練」

サンドロ・ボッティチェリ 「イエス、悪魔を退ける」

西舞鶴教会リグリアンホール


11月17日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第8回 「イエスの教え」 2023年11月10日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

 今回は次のことを学びました。

「たとえ話で教えるイエス」

「たとえの真意は?」

「百倍の実を結ぶ行動」

「隣人を愛し、敵をも愛せよ」

「部外者への憎しみ」

「罪ある者を打つか?許すか?」

 

 今回のお話では、聖書を読むこと(神の言葉を聞くこと)は大切であるが、それ以上に行動することが大事であることを学んだ。

 神の言葉をよく聞き、信じて行動するならば、その従順の結果として100倍の実を得ることができる。どんなに神の言葉をよく聞き理解し信仰があったとしても憐れむ行い(愛、奉仕)なしでは何の役にもたたない。ヤコブの手紙第1章にもそのことが書かれている。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」

 また「隣人を愛し、敵をも愛せよ」では、神はあらゆる人に善を成すお方であって、不正だからといって日を昇らせないことはしない。悪しき者でも雨を降らせ、正しくない者にも憐れみを与えられる。こうした振る舞いこそ、イエスが弟子たちに求めた隣人愛の行動であった。

「罪ある者を打つか?許すか?」では、イエスはそれを実践し、ヨハネ福音書第8章に出てくる姦淫の罪を犯した女を見事に救ったのである。

 

 次回のお話の会は、11月24日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

  ブリューゲル キリストと姦通女

  ロット 姦淫の女とイエス

  お話の会 風景

 

  西舞鶴教会リグリアンホール


10月28日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第7回 「イエスの誕生」 2023年10月27日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

今回は次のことを学びました。

「マタイ版誕生物語」

「ルカ版誕生物語」

「三博士とは?」

「飼い葉おけのイメージ」

「どこで生まれたのか?」

「いつ生まれたのか?」

 

 今回はイエスの誕生について、マタイ福音書とルカ福音書とを比較しながらお話を伺いました。マタイ福音書もルカ福音書もイエスはベツレヘムで生まれて、ナザレで育ったと書かれている。(ただし現在もイエスの誕生についてはいまだにはっきりとは分かっていない)しかし、主の天使によって受胎告知を受けたのはルカ福音書ではナザレで告知を受けているのに対し、マタイ福音書ではベツレヘムで告知を受けたと書かれている。ルカ福音書では、「天使ガブリエルは、ナザレという町に神から遣わされた。天使はマリアのところに来て、おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方と言われる」。これに対しマタイ福音書では、ナザレではない地(おそらくベツレヘム)で、 ヨセフの夢に天使が現れ、マリアに関しては、天使による告知の記述はなく、聖霊による受胎をすでに知っていたことのみ書かれている。

 また、生まれた家、(馬小屋、飼い葉おけなど)、いつ生まれたかについてもマタイ福音書とルカ福音書では食い違うところがある。このような違いがあるのはなぜか。それはマタイが福音書を書くとき、旧約の預言書を念頭に書いており(律法と整合させている)ためで、ルカとマタイとは想定が違っている。イエスの誕生についてもマタイは旧約の預言書と整合させている。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者の中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」また、ルカはことさらにイエスが貧しいところで生まれたことを強調して書いている。今回の神父様のお話を聞いて、福音書の中にこのような違いがあることが分かって大いに参考になった。

 

次回のお話の会は、11月10日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

  受胎告知 フラ・アンジェリコ

  羊飼いの礼拝(ジョルジュ・ド・トゥール)

  お話の会 風景

  お話の会 風景


10月20日 更新

 

次回のお話の会は、都合により10月27日に変更になりました。

10月8日 更新

 

頭島神父様によるお話の会 

第6回 「真の人キリスト」 2023年10月6日(金)10時~11時30分まで リグリアンホールにて。

 

今回は次のことを学びました。

「祭りとイエス」

「生ける命の水」

「神殿とイエス」

「聖なる祈りの家」

「イエスの意図は何?」

「イエスの主張する掟とは」

 

今回のお話でも、「信仰によるイエス」ではなく、人間としてのイエスについて深く学びました。

とくに印象に残ったのは、「神殿とイエス」~「イエスの主張する掟とは何か?」の項目で、イエスが、ユダヤの最大の祭りである「過越祭」へ出かけて行ったとき、神殿の境内で、商人たちが物を売ったり、お金の両替をしているところを見て、激しく怒り、商人たちを境内から追い出したことである。

このようなイエスの激しい行動は、福音書の中で唯一出てくる出来事である。イエスは神聖な神殿を汚す商人たちに我慢ならなかったのである。

「これらのものをここから取り去れ、私の父の家を商売の家にするのはやめろ」

「聖なる神殿とは、すべての民族の祈りの場でなければならない。何をしてもゆるされるものではない」

これがイエスの真意であったのだ。

しかしこの出来事は、神殿での商売を許可していた祭司たちの怒りを買うはめとなった。

この出来事から人間イエスの別の一面を知ることができる。この出来事を描いた代表的な絵画に、エル・グレコの「神殿を浄めるイエス」などがある。

また「生ける命の水」のお話も印象に残った。シロアムの池についても詳しく学んだ。

 

 

次回のお話の会は、10月20日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時30分まで

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。  

エル・グレコ(神殿から商人を追うキリスト)

 

レンブラント(両替商を宮殿から追い出すイエス」)

 

西舞鶴教会リグリアンホール


9月26日 更新

 

頭島神父様によるお話の会           

第5回「イエスはキリストである」2023年9月22日(金)10時から11時30分まで リグリアンホールにて 

 

今回は、次のことを学びました。

「ラビとしてのイエス」

「先生であるイエス」

「賢者としてのイエス」

「巡回するイエス」

「呼びかけるイエス」

「メシアとしてのイエス」

「福音書のメシア・キリスト」

これまでイエスについて「信仰のキリスト」の視点で聖書を読んできたが、人間イエスについてはあまり語られなかった。今回の講義では引き続き人としてのイエス(イエスとは何者か、どんな人なのか)についていろいろ学びました。遠藤周作や三浦綾子もこの問題を追及した小説を書いています。また召命、回心、使命についてもお話を聞きました。

 

ほかに聖書と絵画の話ではゴッホが描いた「善きサマリア人」についてお話がありました。

ゴッホは画家になる以前、伝道師として働いた時期がありました。子供の頃から聖書に親しんでいたので、聖書を題材にした絵画も描いています。ゴッホらしい明るい色彩の力強い絵です。

ルカ福音書10章の中に出てくる「善きサマリア人」のたとえ話は次のとおりです。

ある律法の専門家が、イエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」「わたしの隣人とはだれですか」

と質問したときイエスはお答えになった。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われて、服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しにあった。追いはぎはすぐにその場を立ち去った。

たまたまそこを通りかかった祭司はその人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所へやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ところが旅をしていたあるサマリア人はそばに来ると、その人を見ると憐れに思い、近寄って傷と油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せて宿へ連れて行った。翌日、宿屋の主人にお金を渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」といった。さてあなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思いますか」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」イエスはいわれた。「行って、あなたも同じようにしなさい」

ゴッホはこの隣人愛に溢れた、たとえ話をもとにこの絵画を描いたのです。

 

次回のお話の会は、10月6日(金)午前10時からです。是非多数ご参加下さい。

 

場所 リグリアンホール

日時 各月第2、第4金曜日 午前10時~11時まで

(都合により日が変更になることがあります)

会費 200円(1回につき)

その他 各自、聖書、お茶ご持参ください。 

 

お話の会 風景

ゴッホ絵画「善きサマリア人」 

西舞鶴教会リグリアンホール