2月29日 更新

 

丹後教会巻頭言記事 「回心の時」                      トマス頭島光神父


◆回心とは?

今年度の四旬節が始まっています。今、一斉に<回心の時>です。自らの心の中をぐるっとひとまわりし見ることができたら、こんな恵みの時がないと知るでしょう。しかし、私たちは「それは自分のことだから、それはよくわかっている」と言うかもしれません。が、本当にそうでしょうか。実は<真の自分>は、それほど簡単には分からないと思います。<回心>とは、実に奥深い神秘に満ちたことです。そこで、よく分かってはいないであろう自分について、再度、見つめ直すところから始めたいのです。

◆自分を明け渡す

 イエスというお方は、まさに自分のすべてを私たちに明け渡された方でした。何もかもさらけ出し、愛そのものを見せてくれました。心の穢れも、その美しさもみなすべてをあからさまに見せられました。どうしてこれほどまでに自分自身をさらけ出し、しかもそれを他者のため、特に罪人のために、すべてを完全に捨て去ることができたのでしょう。どうして、そんなにすごいことができたのでしょう。おそらくイエスは一人でも多くの人を罪の闇から救い出したいという、ただその一心の人でした。私たちはあの十字架上のイエスのお姿を見るたびに、そのことを思わざるを得ません。あの十字架の上に、すべてがさらけ出された我が身を垣間見るからです。本当なら、私が為すべきことだったのに、イエスご自身が私の身代わりになって、成し遂げてくださいました。

◆新たな力が芽生える

 だから、この四旬節の間に私は自分が変えられるよう切に祈りたい。自分が新たに変わることができれば、そこに新たな希望も見えてくると信じるからです。おそらく、今私をがんじがらめにしている何かが私を不自由にしています。それは自分の中の勝手な思いやこだわり、また下手な主張や愚かしいばかりの無知さ加減。それらをみな捨て去ることができれば変わるのです。数え上げればきりがないですが、不要なものなのです。これらをすべてはぎ取り捨てさりましょう。そうすれば、どんなに解放感に満たされるでしょう。イエスが語る<施し、祈り、断食>とは、まさにそのために行うべき事です。祈り、節制、断食をまじめにやり切れれば、私をがんじがらめにしていたそれらのものはすべてはぎ取られ、そして新たな力がそこに芽生えることでしょう。

◆あなたを一心に受け止める

「誰が追いはぎに襲われた男の隣人となったか」。これはあの《善きサマリア人のたとえ》の中のイエスの最後の問いである。私が自分から解放されて新しく生きはじめたとき、そこにあなたが私の友として生きはじめるでしょう。つまり、私はあなたのすべてを受け止め、愛の喜びを感じたのです。私があなたを無条件に愛するのです。私があなたと向き合うことに限界などありません。実に、あなたのすべてを受け止められた方はイエスしかいません。あのサマリア人は、まさにイエスの姿でした。そのように私も隣人として生きましょう。この愛にはもはや人の欲、自己の益など一寸も入り込む余地がありません。今こそ自分を変えましょう。すべてを変えて生きる決断の時です。

◆未来に向かって

 

パパ様は言います。「私たちが住む現代世界はすでに第3次世界大戦の中にあります。それは断末魔の終末的叫びではなく、むしろ生みの苦しみなのだ。今世界は壮大な舞台の幕切れに立っているのでなく、希望への幕開けの直前に立っているのだ」と。だから今、私たちは何が真に必要であるかを考えましょう。思い切り想像して、苦しむ他者の思いに寄り添い、苦しむ者の手を取りましょう。悲しむ者と共に愛の道を歩み、嘆く者の声を聞き取り、痛みと向き合ってみましょう。そうすれば、必ず、未来への希望と光が向こう側に輝くのを見るでしょう。