12月4日 更新
希望のうちに降誕祭を準備しましょう 京都北部ブロック担当司祭 三輪周平神父
主キリストの誕生を準備する待降節が11月30日の前晩の祈りから始まります。今年の待降節はいつもと違っています。それは12月24日から始まる聖年を準備することでもあります。聖年については先月号の教会だよりで頭島神父様が詳しく伝えてくださいました。今年2024年は聖年を準備する「祈りの年」ということです。待降節は主キリストを迎える準備をするときですが、今年は特にこの恵みあふれる聖年に備えられるように心を込めて準備したいと思います。ご存じのように待降節は二つの性格をもつ準備の期間です。一つは主キリストの受肉の神秘を祝うクリスマスの準備、そしてもう一つは主キリストの再臨を迎える準備です。この雰囲気は12月16日まで続きます。私たちは約二千年前に神の子が人間となった受肉の神秘を祝う準備をしながら、最終的には主の再臨に向けて準備することを心掛けます。またこの待降節の間には様々な伝統行事やシンボルがあります。よく知られているシンボルの一つにアドベント・キャンドル(4本ローソク)があります。この4本のローソクは待降節中の4つの主日を意味しています。このアドベント・キャンドルの意味を思いめぐらすことは、待降節とは何かを考えることにつながります。待降節の間主日毎にローソクの火を1本ずつ増やしていきます。主日毎に光が増えて行きます。1本目のローソクは「預言者のローソク」と呼ばれ、「希望」を表しています。イエス・キリストは旧約聖書の預言の成就としてお生まれになった私たちの希望です(イザヤ9:5)。二本目のローソクは「天使のローソク」と呼ばれ、「平和」を表しています。イエス・キリストの御降誕を告げたのは天使です。天使たちは旧約聖書の詩編のことばから「地には平和」と賛美しました(ルカ福音書2:8~20)。3本目のローソクは「羊飼いのローソク」と呼ばれ、「喜び」を表しています。イエス・キリストの御降誕が最初に告げられたのは羊飼いたちに対してでした。羊飼いたちは飼い葉桶に寝かされている幼子を見出し、喜びに満たされました(ルカ2:8~20)。この日の典礼の色は喜びを表すバラ色を使うことができます。4本目のローソクは「ベツレヘムのローソク」と呼ばれ、「愛」を表しています。神の愛の現れであるイエス・キリストが生まれた場所はユダヤのベツレヘムでした(ルカ2:1~7)。 ところで、私たち自身もローソクにたとえることができます。ローソクはそれ自体では灯りを灯すことはできません。ローソクに灯りを灯す人と火が必要です。私たちも同じように永遠の光であるキリストは私たちのところに来てくださり、私たちがもっと輝くようにしてくださいます。私たちが世の光となるように先に光として私たちを導いてくださいます。「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)。また同時に「わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」(ヨハネ15:5)とも言ってくださいます。クリスマスのシンボルをマリア様のように思い巡らしながら、キリストに信頼して、希望のうちに共に楽しいクリスマスを準備してまいりましょう。
10月24日 更新
丹後教会巻頭言11月号の記事 トマス頭島光神父
新たな時の始まり
◆聖年の扉
11月は死者の月であり、典礼的には終末の時です。この時節に、私たちはキリストの再臨を願いつつ、死者のために祈ります。既に多くの方々が生涯を終え神様の身元に召されていきました。私たちもいずれ天の国の父のもとに旅立ちますが、いままだ為すべきことが与えられています。この世に生き残っている私たちが為すべきこととは、まずは死者のことを思い起こし祈ることです。来年、私たちは聖年を迎えます。聖年の扉がバチカンで今年のクリスマスの夜に開かれ、キリストによる救いの確信を再度、心に呼び覚ます新たな始まりとなるでしょう。
◆希望のしるし
現代世界はまだ多くの所で忌まわしい戦争を続けています。日本でも強盗殺人事件が各地で頻繁に起こり、人々の苦しみ。悲しみは増幅しています。いつまで、これらの悲惨な出来事は続くのか、いつ終わるのか。希望は遠のくばかりです。そんな折、聖年の大勅書「希望は欺かない」が出されました。私たちはそれでも諦めません。キリストによるこの希望は決して欺かない。なぜなら、恵みに満ちた神の慈しみから溢れ出ているからですと、教皇様は書くのです。この言葉は真実です。
◆巡礼教会
教皇様は聖年の免償の賜物について、既に2015年のいつくしみの特別聖年の際に、この賜物を受けることの大切さを諭されました。この通常聖年中もまた免償のたまものは有効です。「聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は…全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます」と勅書が語る通りです。私たち信者は<希望の巡礼者>となって、巡礼教会をめぐり祈りを捧げましょう。聖地巡礼はもとより、ローマの四大聖堂(サンピエトロ、ラテラン、サンパオロ、サンタマリアマッジョーレ)、その他司教の指定する司教座聖堂及びその他の聖堂を訪問しましょう。実は、来年、私たちの教会である宮津聖ヨハネ天主堂と福知山教会の聖堂は、京都教区の巡礼教会として北部ブロックより指定されます。
◆免賞の賜物
それでは免償のたまものとは何でしょうか。免償はゆるしの秘跡と密接な関わりがあります。罪を告白すれば罪が赦され、私たちは赦免された罪による有限の痛みと苦しみを完全に打ち消すためにこれを恵みとして受け取るため、愛の実践、慈悲の業、その他様々な利他的償いの業に生涯励まねばなりません。そうすることで古い私は脱ぎ去られ、新しい人となるからです(コロサイ3章9-10節、エフェソ4章24節参照)。日本語に「罪滅ぼし」と言う言葉がありますが、その言葉通り、善業をなすことで過去の罪の償いを果たすことができるのです。聖書に「私の選ぶ断食とは何か、悪による束縛を断ち、軛の縄目を解いて虐げられた人を解放することではないか」(イザ58章6節)と言われていることと同じです。
◆慈善と償いの業
私たち信者は皆、神様から愛されています。キリストの十字架の業によってあらゆる罪のゆるしを得たのです。だから敬虔なる祈りと愛の実践によって信仰の御業を果たすことが求められます。教会からいただいた免償は、同時に死者のためにも適用されます。煉獄の霊魂のために愛の業を捧げるなら死者のための全免償を受けることができるのです。つまり、地上での生涯を終えたすべての人の罪が清められ、イエスの死と復活の恵みに預かり、隠された罪科から完全に解放されるのです。そのために私たちは死者のために祈るのです。こうして、聖年の免償のたまものは、その祈りの力によって先に召された兄弟姉妹のために満ち溢れる神のいつくしみとなるよう定められているのです。
◆罪深い女をゆるすイエス
自分が罪深い者であることをよく分かっている一人の女性が、あるファリサイ派の家に入って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、…その足を涙でぬらし、…髪の毛でぬぐい、その足に…香油を塗った」ルカ7章38節)とあります。イエスはこの女の行動をよく見て「多く赦された者は多くを愛する」(ルカ7章47節)と言われました。神の愛と慈しみとそしてゆるしに、愛をもって応えたこの女は、自らの罪の償いとしてこよなく愛を実践したのです。私たちもこれに倣うことができますように祈りましょう。
10月4日 更新
10月は「ともに祈る月」 担当司祭 三輪周平
10月に入りましてやっと朝晩涼しくなり秋らしく過ごしやすくなりました。これから始まる行事の為祈りが忙しくなります。今月の典礼の暦は、私たちになじみの深い聖人、幼いイエスの聖テレジアおとめ教会博士(リジューの聖テレジア)、アシジの聖フランシスコ、アビラの聖テレジアおとめ教会博士(大聖テレジア)、聖ジェラルド・マイエラ、福音記者聖ルカ、聖シモン聖ユダなどの祝日が豊かにあります。
今月2日からシノドス第16回通常総会の第2会期がローマで始まります。この会議の一番の目的は「宣教するシノドス的教会となるには」今私たちの教会は何に取り組み、どのようにあることが必要なのかをシノドス参加者が共に祈り、黙想し、聖霊の導きを識別することと皆に伝えています。シノドスの会議が神様にふさわしい集いとなりますように私たちも祈りましょう。祈るだけでなく積極的に宣教するシノドス的教会となるように共に歩んでまいりましょう。
また今年の12月24日のクリスマスから2025年の通常聖年が始まります。ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」が教皇様によって開かれて始まります。今年はこの聖年に向けた準備のための「祈りの年」となっています。今年は個人的な祈り、そして共同体としての祈りを中心に据えるよう呼び掛けています。教皇様は「この恵みあふれる聖年に備えるように、また神の希望の力を経験できるように、さらに祈りを深めてください。個人的な生活の中で、教会生活の中で、世界の中で、祈りの素晴らしい価値と祈りの絶対的な必要性を再発見するための一年とするためです」と呼びかけておられます。
そして10月は10月7日のロザリオの聖母に因んでロザリオの月でもあります。今月22日に祝う聖ヨハネ・パウロ二世教皇は使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」の中で「ロザリオの珠は、ロザリオを唱えるための道具として伝統的に用いられてきたが、何も考えないで用いるなら、この珠は、単に「アヴェ・マリアの祈り」の数を数える道具にすぎないが、この珠も、象徴的な意味をもっており、観想のための豊かな内容を与えてくれます。ロザリオの珠が十字架へとまとめられていることです。ロザリオの祈りは十字架から始まり十字架で終わります。信者の生活と祈りはキリストを中心として行われます。すべてはキリストから始められ、すべてはキリストへと向かいます。そして、すべてはキリストによって、聖霊のうちに、御父へと至ります。珠の数を数え、祈りの歩みを刻みながら、ロザリオの珠は観想の道も、キリスト信者の完徳への道も終わりのないものだということを示します。ロザリオは平和のための祈りであるだけでなく、これまでずっと、家庭の祈り、また家庭のための祈りでした。この伝統を絶やさないことが重要ですと述べています。この10月をロザリオの祈りを通して、家庭のためはもちろんのこと世界の平和のため、また聖年の準備のために祈ってまいりましょう。
9月17日 更新
丹後教会巻頭言9月号の記事
「希望の時は、いま」 トマス頭島光神父
◆平和を祈る
2024年も半年が過ぎ、うだるような暑さが続いております。 皆様、いかがお過ごしでしょうか。教皇フランシスコ様は、2025年を聖年の年と定め、今年、その準備の祈りの年とされました。テーマは希望の巡礼です。国内では、新型コロナウイルス感染症が「5類感染症」とされ、一年が過ぎましたが、感染者はいまなお増え続けています。世界では戦争、紛争、テロ等によって今もなお、多くの人々が命の危険と隣り合わせです。 その結果、日本と同じ人口の1億2000万の人が、居場所を追われ、難民として不自由な暮らしを余儀なくされているのです。それでも私たちは希望をもって、イエスのみ跡を慕いて歩き続けなければなりません。これらの不安と危険から一刻も早い解決の道が開かれますようにと祈り続けましょう。そして、私たちの心から愛が失われないうちに、特に女性や子供たちが平和で安心して暮らせる日々の生活が一日も早く訪れますように、ともに祈りましょう。
◆聖年に祈る
教皇様は聖年が希望ある、意味のあるステップとなるように信望愛の実践を願っておられます。 聖なる年の巡礼により、バチカンの扉をくぐることで、聖ペトロ、聖パウロに触れ、霊的賜物をいただきます。この聖年の年が恵み豊かで希望に満たされますように祈りましょう。苦しみの中にある人々、悲しみの渦中にある人々、嘆きに打ちひしがれている人々を思い起こし、連帯して祈りましょう。そして誰も見捨てられることなく、必要な援助と恵みがありますように祈りましょう。
◆恵みの時に
イエス様は何を見、何を語られたのでしょう。 イエス様は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない空の鳥を見て言われました。「あなたがたの天の父は鳥をも養ってくださる」(マタイ6:26)と。 また「目をあげて畑を見よ。 色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)と。 イエス様のまなざしは、私たちと同じものを見ているのに見方が全く違います。イエス様のこの言葉を聞いて、私たちは勇気付けられ、励まされ、また慰められるのではないでしょうか。世界を見回してみても、希望の欠片も見えませんが、イエス様にとって、この世界はチャンスのとき、チャレンジの時、そしてよき恵みの時なのです。
◆利他の心で生きる
「豊かであったのに貧しくなられた」(II コリ8:9)方こそ、キリストです。 つまり、イエスご自身の持つ豊かさは他者の利のためでした。私たちはどうでしょうか。自分の利益は他者のためにありますか。あの金持ちの青年を思い出してください。彼はイエス様の言葉を聞いて悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからです。多くの人が苦しみにあえいでいます。 多くの方々が悲しみに打ちひしがれています。 来年まで待てません。今、できることがあれば、愛の実現のために連帯し、協力することができますよう、ともに祈りを捧げましょう。
2月29日 更新
丹後教会巻頭言記事 「回心の時」 トマス頭島光神父
◆回心とは?
今年度の四旬節が始まっています。今、一斉に<回心の時>です。自らの心の中をぐるっとひとまわりし見ることができたら、こんな恵みの時がないと知るでしょう。しかし、私たちは「それは自分のことだから、それはよくわかっている」と言うかもしれません。が、本当にそうでしょうか。実は<真の自分>は、それほど簡単には分からないと思います。<回心>とは、実に奥深い神秘に満ちたことです。そこで、よく分かってはいないであろう自分について、再度、見つめ直すところから始めたいのです。
◆自分を明け渡す
イエスというお方は、まさに自分のすべてを私たちに明け渡された方でした。何もかもさらけ出し、愛そのものを見せてくれました。心の穢れも、その美しさもみなすべてをあからさまに見せられました。どうしてこれほどまでに自分自身をさらけ出し、しかもそれを他者のため、特に罪人のために、すべてを完全に捨て去ることができたのでしょう。どうして、そんなにすごいことができたのでしょう。おそらくイエスは一人でも多くの人を罪の闇から救い出したいという、ただその一心の人でした。私たちはあの十字架上のイエスのお姿を見るたびに、そのことを思わざるを得ません。あの十字架の上に、すべてがさらけ出された我が身を垣間見るからです。本当なら、私が為すべきことだったのに、イエスご自身が私の身代わりになって、成し遂げてくださいました。
◆新たな力が芽生える
だから、この四旬節の間に私は自分が変えられるよう切に祈りたい。自分が新たに変わることができれば、そこに新たな希望も見えてくると信じるからです。おそらく、今私をがんじがらめにしている何かが私を不自由にしています。それは自分の中の勝手な思いやこだわり、また下手な主張や愚かしいばかりの無知さ加減。それらをみな捨て去ることができれば変わるのです。数え上げればきりがないですが、不要なものなのです。これらをすべてはぎ取り捨てさりましょう。そうすれば、どんなに解放感に満たされるでしょう。イエスが語る<施し、祈り、断食>とは、まさにそのために行うべき事です。祈り、節制、断食をまじめにやり切れれば、私をがんじがらめにしていたそれらのものはすべてはぎ取られ、そして新たな力がそこに芽生えることでしょう。
◆あなたを一心に受け止める
「誰が追いはぎに襲われた男の隣人となったか」。これはあの《善きサマリア人のたとえ》の中のイエスの最後の問いである。私が自分から解放されて新しく生きはじめたとき、そこにあなたが私の友として生きはじめるでしょう。つまり、私はあなたのすべてを受け止め、愛の喜びを感じたのです。私があなたを無条件に愛するのです。私があなたと向き合うことに限界などありません。実に、あなたのすべてを受け止められた方はイエスしかいません。あのサマリア人は、まさにイエスの姿でした。そのように私も隣人として生きましょう。この愛にはもはや人の欲、自己の益など一寸も入り込む余地がありません。今こそ自分を変えましょう。すべてを変えて生きる決断の時です。
◆未来に向かって
パパ様は言います。「私たちが住む現代世界はすでに第3次世界大戦の中にあります。それは断末魔の終末的叫びではなく、むしろ生みの苦しみなのだ。今世界は壮大な舞台の幕切れに立っているのでなく、希望への幕開けの直前に立っているのだ」と。だから今、私たちは何が真に必要であるかを考えましょう。思い切り想像して、苦しむ他者の思いに寄り添い、苦しむ者の手を取りましょう。悲しむ者と共に愛の道を歩み、嘆く者の声を聞き取り、痛みと向き合ってみましょう。そうすれば、必ず、未来への希望と光が向こう側に輝くのを見るでしょう。